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東京都が周知の遺跡≠ニ指定する以前から、JR東日本は「高輪築堤」の存在を知っていた! 

2021年06月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し




東日本旅客鉄道株式会社(以下JR東日本とする)が制作した動画「高輪築堤について 4街区」のキャプションには『平成21年(2009年)より車両基地の再編に着手し、新たに生まれたエリアに品川まちづくりの核である「高輪ゲートウェイ駅」が令和2年(2020年)3月に開業しました。』『令和元年(2019年)11月の山手線・京浜東北線の線路切換工事完了以降、築堤の残存状況を確認する試掘調査を実施しました。その結果、旧山手線、旧京浜東北線の線路下より高輪築堤が見つかりました。』と書かれています。
JR東日本「品川開発プロジェクト(第1期)」建築設計担当から『(1)2019年5月に品川駅の工事中に築堤跡が出土した。東京都教育庁に届け出た。(2)線路移設工事が終了したので、1〜4街区の試掘調査をしたところ2020年2月に出土したので、8月に同じく東京都教育庁に届け出た。』との回答が来ました。(注)埋蔵文化財法第184条 次に掲げる文化庁長官の権限に属する事務の全部又は一部は、政令で定めるところにより、都道府県又は市の教育委員会が行うこととすることができる。
所謂周知≠ニは、すでにその存在が公けになっている遺跡の事を周知の遺跡≠ニいっていて、遺跡への「学術調査」の届け出を指しています。東京都が埋蔵文化財法(埋蔵文化財包蔵地の周知)第95条による「周知の包蔵地」指定が2000年8月なので、2019年5月時点では「土地に埋蔵されている文化財」は、知り得なかったというのがJR東日本の立場でしょう。市民が「埋蔵文化財包蔵地未周知」の土地を登記簿謄本で調査してから購入し、マイホームの建築行為を始めたが、「埋蔵文化財包蔵地」だったと知らされた事案ではないと考えます。
そこで嘘をついていると思われる、JR東日本の立場を論じたいと思います。
(1)東京都首都整備局に開示請求しましたが、環境局から全939頁の土壌環境行政文書が到達しました。この文書には、線路を撤去しコンクリート枕木痕が見える貴重な写真もありました。

『調査対象地における地下水の状況等』?土地分類基本調査図:地形分類図「東京西南部」(平成9年発行)によると、対象地は概ね埋立地(1945年以後)に分類されているが、地歴調査による旧版地図で は大正8年には対象地のほぼ全体が埋立地となっている。また、明治44年に品川駅の拡張工事に着手し、埋立工事は大正3年に完成したとされており、この時点で現在の土地の造成が概ね完了したものと考えられる。上記以外には、地表の高さを変更した履歴は確認されなかった。? 出典:土地分類基本調査図 地形分類図「東京西南部」東京都(平成9年発行) 図-1対象地周辺の地形
JR東日本が環境局に提出した図面から、環境汚染地区を地歴調査によって正確に把握していたことが分かります。築堤部分は非汚染地区となっています。

(2)昭和60年(1985年)度「汐留駅周辺地区総合整備計画」の「汐留地区土地区画整理事業」の所謂「行政発掘」として始まりました。汐留駅再開発の発掘調査の経緯を見れば「高輪築堤」の存在は考古学上からは明らかになっていた筈であり、「周知の埋蔵文化財包蔵地」に指定してこなかった文化庁・東京都・港区の「行政の不作為」を指摘せざるを得ません。=レールはつづく=のですから明治5年我が国初めての鉄道開通した始発駅新橋停車場から線路は本芝町で海中に線路を敷設した「高輪築堤」の存在は、工部省、逓信省帝国鉄道庁、鉄道院、鉄道省、国有鉄道、そしてJRという国家機構として記録されているのは当然と言えます。
(3)品川歴史館は「鉄道開通140周年記念:品川歴史館特別展『品川鉄道事始ー陸蒸気が品川を走るー』を開催した2012年10月時点で「高輪築堤」を文化遺跡と認識していました。
「図録:品川鉄道事始ー陸蒸気が品川を走るー」裏表紙

「図録:品川鉄道事始ー陸蒸気が品川を走るー」付録


管理人が所蔵する「東京一目新圖」より


(4)昭和48年(1973年)刊:東京南鉄道管理局編「汐留・品川・櫻木町百年史」より





「ヤードの話」
? 明治5年、鉄道の開通以後は,基地的役割を果たした品川駅構内も、逐年整備改良が加えられ、東海道及び山手線の開通にともない輸送量も増大し,構内線路も拡張の一途をたどったのである。明治44年6月将来への構内拡張に備えて、駅構内下の海岸を埋め立てることになり、147万円の巨費と6か年あまりの歳月を要して,約8万5000坪の埋立てを完成し、これと併行して行なわれた改良工事によって、大小の貨車坂阜線(注)が誕生した。(注)「ハンプ・坂阜」この間、大東京の表玄関として,大正3年12月20日に東京駅が開業、その構内に客車操車場も設けられたのであるが、間もなく第1次世界大戦が勃発し、これにともなう好景気を反映して旅客の移動がとみに盛んとなり、輸送量は急激に増大した。 品川駅では貨物ヤードの誕生により、中央,東北,上信越及び常磐線方面からの貨車が仕訳けされ、東海道線各駅への中継が行なわれたが,大消費地及び京浜工業地帯を控えて、貨物輸送は年ごとに増加した。 一方、東京駅においても,附属客車操車場の改良につぐ改良を加えて、輸送力の拡充につとめたのであるが編成車数の増加等によりついに作業困難となったため、将来への大きな構想として考えられ たのが、東京、品川、新鶴見を結ぶ大改良であった。すなわち、行きづまった東京駅附属客車操車場の作業を打開するため、これを全面的に品川駅構内に移し、品川駅構内の貨物坂阜線に大改良を加えて、大客車群線と貨物小群線を併設して客貨車の仕訳け、組成に便ならしめるとともに、従来の坂阜作業場を新鶴見に移行し、東京、 品川、新鶴見を結んで客貨車操車の行きづまりを一挙に解決せんとする一大改良工事であった。 しかし、その最もねらいとするところは、品川駅構内における客車操車場の完成が主であって、東京駅との距離的関係及び将来の列車回数増加並びに運転方法の変化などに応じ得る弾力に富んだ一大計画であった。このため、工事設計基準の想定年度を、昭和25年ころとしてなされたものであったが、いま、わが品川駅の構内作業を概観するとき、先人の思考もまたこん日の隆盛に遠く思い及ばなかったうらみがないでもない。これによって昭和12年10月、まず、新鶴見操車場が新設され、品川駅の貨物ヤードは縮少したが、同時に起工された品川駅構内大改良工事も昭和16年に一応完成し、大客車ヤードに生まれ変わったのである。そしてその後も、幾度か改良が加えられ現在の品川駅構内では、客車、貨車等の仕訳け、組成作業が行なわれ、山手方面と汐留及び新鶴見方面から京浜間行貨車の中継並びに、自駅到着、発送車、家畜市場線、横河橋梁、清田商店各、用線着発貨車の入れ換えを行なっている。又、客車関係は、東海道線旅客列車の組成,組み替えを行ない、東京駅発着の台所の役目を主とし、東海道線及び中央線の臨時列車の組成その他の作業も行 なっている。客車配置両数は約725両で、一日着発1,100両前後の検査及び操車作業を行なっている。
以上を論じたが「築堤の残存状況を確認する試掘調査を実施しました」というJR東日本の言い訳は真っ赤な嘘で、「高輪築堤は、日本の鉄道の出発点を示す施設であるとともに、日本の近代化の原点を物語る施設です。日本の近代化を語る上で最も初期の、最も重要と思われる鉄道遺構」(日本イコモス国内委員会)の存在を知り得ながら、それを破壊して開発ビルを建設しようと企むJR東日本の企業姿勢に対して心底から怒りを覚えます。
(了)

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