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平成の虚無僧一路の日記

『泰西王侯騎馬図』 サントリー美術館への経緯 

2021年05月31日 外部ブログ記事
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会津鶴ヶ城の天守閣にあったという『泰西王侯騎馬図屏風』。
八曲一双のうち半分は、長州藩士「前原一誠」の遺族から、池永氏へ、
そして現在、「神戸市立南蛮博物館」の所蔵するところとなっている。?
?
では、残る 4曲一双は?
松平家が所有していたが、実は、戦争中、一時私の家に保管されていた。
叔父「牧原源一郎」は、福島県選出の国会議員として、東京の目黒区に
家を構えていた。そして、どういういきさつか、松平容保のご子孫から 
この襖絵を預かっていたようだ。しかし、ある日、「東京では危ないから、
疎開する」と、運び出され、そのまま行へ不明になってしまった」と
叔父が語っていたのを 聞いたことがある。
とろがところがである。叔父源一郎の長女(美智子)が戦後嫁いだ先の
高瀬家で「この絵は私の家で預かっていた」とのこと。高瀬家は
江戸時代から続く漆器店「白木屋」の店主で、幕末も明治にも、相当の
金を拠出して会津の経済を支えてきた豪商。高瀬喜左衛門氏は青年会議所、
商工会議所等の会頭を務め、会津若松市長にもなった人物。
その高瀬家からいかなる経路で渡ったものか。昭和30年代の末、
?西宮市の藤井氏が所有していたのをサントリー美術館が購入した。
そのとき、「出所を明かさないという条件で、某氏から買取った」と
いうような説明がなされていたことを、私は記憶している。
殿様から預かった品が、持ち出されて ?行くへ不明になったとあれば、
世が世なら切腹もの。事実、叔父源一郎の妻「みと」は戦後自殺している。
自殺の理由は不明だが、この絵の紛失にからめて、フィクション(つくり話)として
推理小説を書きたいと思っていたが、そのことを父に話すと、
父にひどく叱られた。父は「戦後は、殿様も(生活に)苦労されていたから、
(極秘に)手放した(売った)のだろう」と。
30年ほど前、東京の上野精養軒で毎年開催される「会津会」に 私が
初めて出席したときのこと。松平の殿様(保定氏)も臨席されていて、
後方の末席に座っていた私のところまで来られ、「牧原さんには、大変
お世話になりました」と、初対面の私に丁重に頭を下げられた。
私はびっくり、大変恐縮した。そのとき この 『泰西王侯騎馬図』のことが
脳裏をかすめた。

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