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高輪築堤保存問題番外編其の五「明治天皇は広島大本営で日清戦争を指揮した」 

2021年04月06日 外部ブログ記事
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高輪築堤保存問題番外編其の一「日清戦争と鉄道の歴史」/其の二「東京砲兵工廠で製造した三八式歩兵銃は広島・宇品駅まで運ばれた」/其の三「東京砲兵工廠で製造した三八式歩兵銃は甲武鉄道飯田町駅から運ばれた」/其の四「将兵は青山軍用停車場から甲武鉄道に乗車した」の最終編となります。
東京砲兵工廠で製造された兵器類と、青山軍用停車場から乗車した将兵の終着駅は宇品駅でした。そして宇品港から将兵、軍馬、兵器などが朝鮮半島、中国大陸へ向かいました。帰還した将兵は、宇品港の手前にある陸軍似島検疫所で検疫を受けました。
明治政府は朝鮮と中国侵略の構想を早くから持っていました。
原田敬一著「日清戦争」P244「澎湖列島攻略作戦」「台湾割譲の要求」『台湾島の割譲は、早くから考えられていた。第一軍参謀長として戦争の先頭にいた小川又次郎少将は、日清戦争の七年前、一八八七(明治20)年二月「清国征討策案」(山本四郎「小川又次稿『清国征討策案』について」)をまとめている。参謀本部第二局長だったから参謀本部で検討させたと思われる。その「第三篇善後処置」には、「本邦ノ版図二属」させる地域として、旅順半島・山東省・舟山群島・澎湖列島・台湾島・揚子江沿岸一部の六ヵ所を挙げている。小川は日本陸軍の中枢人物の一人であり、「陸軍の有力な構想の一つ」(中塚明『日清戦争の研究』)と見なせる。』
吉田松陰の「幽囚録」では「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること」と、満洲・台湾・ルソンと違い朝鮮を「臣属せし」と貢国として侵略性をむき出しにしています。吉田松陰の思想を学んだ弟子たちの伊藤博文たちは明治維新の原動力となり、朝鮮と中国への侵略を目指しました。
『幽囚録』(安政元年)「朝鮮と満洲とは相連なりて神州の西北に在り、亦皆海を隔てて近きものなり。而して朝鮮の如きは古時我れに臣属せしも、今は則ち?(や)や倨る、最も其の風教を詳かにして之れを復(かえ)さざるべからざるなり。」(二巻五三頁)「日升らざれば則ち昃(かたむ)き、月盈たざれば則ち虧(か)け、国盛んならざれば則ち替(おとろ)ふ。故に善く国を保つものは徒に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり?足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・?都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、則ち善く国を保つを謂ふべし。」(第二巻五四〜五五頁)。



山本俊一著「日本コレラ史」東京大学出版会刊の中に「日清戦争時代には、戦勝後に帰還兵がコレラを持ち帰り、国内の大流行をもたらした。」そのことから陸軍は検疫所を急いでつくった沿革があります。第五章 日清戦争時代「明治二七−二八年の日清戦争時代には、戦勝後に帰還兵がコレラを持ち帰り、国内の大流行をもたらした。この時は従来のように個別的な侵入ではなく、国外から多数の患者および保菌者が侵入して国内各地でコレラの発生を起こしたことが特徴であった。この二年間のコレラ発生状況は次のようである (上の数値ほ届出患者数、下のカツコ内は同死者数)。明治二七年 五四六(三一四)二八年 五五、一四四(四〇、一五四)」
<参考Blog記事>
日本コレラ史から「日清戦争後の陸軍検疫所設置」




陸軍第五師団司令部に「大本営」を置き、明治天皇は日清戦争を指揮しました。
神宮外苑聖徳記念絵画館の壁画から
「58 日清役平壌戰」

「59 日清役黄海海戰」

「60 廣島大本営軍務親裁」

「61 廣島豫備病院行啓」

「62 下關媾和談判」

「63 臺灣鎮定」 

「65 振天府」

<参考Blog記事>
聖徳記念絵画館「振天府」の戦利品は何処へ?宮内庁に情報開示請求 B
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(完)
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