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葵から菊へ

高輪築堤保存問題番外編其の二「東京砲兵工廠で製造した三八式歩兵銃は広島・宇品駅まで運ばれた」 

2021年04月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「高輪築堤保存問題番外編「日清戦争と鉄道の歴史」の記事中、「東京砲兵工廠」についてご質問がありましたので「其の二」と「其の三 東京砲兵工廠で製造した三八式歩兵銃は甲武鉄道飯田町駅から運ばれた」としてエントリーします。(文末に【砲兵工廠】と【御紋章】を記載しました。)
 
2019年11月文京区発行「文(ふみ)の京(みやこ)平和マップ」



2007年8月14日毎日新聞東京版「戦跡を歩く 07年夏 @ 旧陸軍東京砲兵工廠跡」
>ボランティアガイドの長谷川順一さんは(70)はこれらの戦跡を「物言わぬ語り部」と呼ぶ。「未来の人々に戦争を伝えてくれる存在」という言葉を聞き、ひと抱えほどのレンガの塊がもっと大きく見えた。【吉永磨美】<




東京ドームの外側にある沢村栄治など野球選手戦没者「鎮魂の碑」


この記念碑は工廠の敷地を象っています。上側の三角は中央大学後楽園キャンパスです。



東京砲兵工廠古地図


小石川後楽園正門から入って一番奥にあります。通用門の飾りの隙間から見えます。

園内には不思議な物体がありますが、砲兵工廠で使用された機械の一部であろうとしか専門家も分かっていません。




 
文京区礫川(れきせん)公園全景。高い建物が中央大学後楽園キャンパス。

2004年9月22日管理人撮影「東京砲兵工廠射撃場入口」
  
2019年10月16日管理人撮影

白い壁は、東京メトロ丸ノ内線後楽園駅。この奥に煉瓦の射撃場入口があります。

荒れた雑木林で歩けない。

「区立公園内にあるが、射撃場の権原は財務省関東財務局にあるので、区公園課と調整中だ」と総務課は、回答していましたので「平和マップに掲載されているので煉瓦がある場所まではバリアフリーの見学路を作って欲しい」と要望しました。現在時点ではどうなっているのか状況は不明です。

東京戦没者墓苑から入ると「諸工伝習所跡記念碑」と「陸軍工科・砲兵工科学校跡碑」が見られます。


「兵器技術教育百年史」巻末折込「後楽園今昔図」




文京区ふるさと歴史館から提供された射撃場内の写真。(学芸員が撮影後、閉鎖となりました。)




新宿区戸山にあった陸軍軍医学校の射撃場「陸軍軍医学校五十年史」より。

展示の鉄兜に下に並んでいる頭骨には銃弾の孔があります。


軍医中将石井四郎の防疫研究室。

昭和女子大学堀内教授は世田谷区駒場の近衛輜重兵大隊内射撃場を研究されました。その射撃場の標的枠と監的壕のイラストです。

新宿区陸軍戸山射撃場(右)と陸軍科学学校・第六研究所(左)航空写真


新宿平和委員会発刊「葵から菊へ」(絶版)から「陸軍戸山射撃場(右)と陸軍科学学校・第六研究所(左)」浜田煕氏のイラスト




陸軍戸山射撃場の境界石(管理人が発見した)

ゴミ箱の辺りから見つかった。

【砲兵工廠】:日本陸海軍事典 1997年8月15日第一版発行 編者原剛・安岡昭男 発行所 株式会社新人物往来社 陸軍の銃砲・弾薬を製造する陸軍直営の工場。1879年(明治12)から1923年(大正12)の間、砲兵工廠と呼称された。陸軍は西南戦争の経験から、兵器の国産化・量産化を図るため、1879年、従来の砲兵本(支)廠の兵器製造機関を整理統合し、それぞれ独立した東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠を新設した。 新設当初の東京砲兵工廠は、小銃製造所・銃砲製造所・火工所・大砲修理所・火薬製造所からなり、小銃・小銃弾薬・火薬の製造を担当し、大阪砲兵工廠は、製砲所・製弾所・製革所・火工所・小銃修理所からなり、火砲・火砲弾薬・車両の製造を担当し、以後この分野でそれぞれ発展していった。 すなわち東京砲兵工廠は、村田銃等の小銃と弾薬の製造に、大阪砲兵工廠は、加農砲・楷弾砲・臼砲とこれらの弾薬の製造に当たった。この間、東京砲兵工廠は1883年(明治16)1月、火薬製造所を板橋火薬製造所と改称するとともに、岩鼻火薬製造所を新設し、1890年8月火工廠を火具製造所に、大砲修理所を砲具製造所に改称し、翌年11月海軍から移管された目黒火薬製造所を加えた。さらに1904年11月熱田兵器製造所を新設、1906年に精器製造所を砲具製造所から独立させ、1918年(大正7)6月名古屋機器製造所を新設した。 大阪砲兵工廠は、1890年8月製砲所を火砲製造所に、製弾所を弾丸製造所に、製革所を砲架製造所に、火工所を火具製造所に改称し、小銃修理所を廃止した。1894年2月宇治火薬製造所を新設、1897年に門司兵器製造所(1916年4月小倉に移転し小倉兵器製造所となる)、1906年鉄材製造所・薬莢製造所、1907年器材製造所を新設した。しかし、時代の進歩とともに、東京と大阪の二工廠が各々独立して陸軍大臣に直属した体制は、生産効率・業務処理上聞題点が多くなり、1923年(大正12)4月、これらを整理統合した陸軍造兵廠が設置され、陸軍造兵廠長官の下に東京工廠・火工廠・名古屋工廠・大阪工廠などに再編された。【注】靖国神社第二鳥居(青銅製)は明治19年大阪砲兵工廠で鋳造され、船で東京湾まではこばれました。明治20年に建立。
【御紋章】:寺田近雄著「日本軍隊用語集」1992年 立風書房発刊 
 軍隊は、師団司令部連隊本部海軍鎮守府、各学校の本部正面にはチーク材・真ちゅう張りの大きな菊花紋が光っていた。大演習や観艦式などに天くが行幸するとき掲げられる天皇旗はもちろん綿織りの御紋なである。 兵器では、帝国海軍の軍艦には例外な陛下のフネとして御紋章が装着されていた。戦艦や巡洋艦などの大型艦ではその艦首に、砲艦などのちっぽけな艦は艦の両側に二つつけられる。? ? ただし、多くの海軍の艦艇や船舶のなかでも、この御紋章がつけられるのは規定された軍艦だけで、排水数千トンの大型駆逐艦や潜水艦でも軍艦には人らないから御紋章はついていない。? ? 陸軍の兵器では小統が唯一の紋章つきで、薬莢の上面に線彫りの菊花紋が刻印されている。花形兵器の航空機や戦車?火砲にはなく、同じ小火器でも機関銃や拳銃にはない。? ? この小銃の御紋章が実は兵隊泣かせで、天皇からお預りした大切な兵器≠ニいう決まり文句で、その地位は兵隊よりも上であった。? ? もちろん、貧乏国日本陸軍の兵器愛用の趣旨からだろうが、その扱いは常識はずれで、手入れが悪く紋章に汚れでもついていようものなら、陛下の兵器を粗末にした不忠者ということで激しい鉄拳制裁が浴びせられた。? ? ときには三八式歩兵銃殿、手入れを怠り悪くありましたと長時間、両手で小銃を捧げる捧げ銃の姿勢をとりつづけさせられる。? ? 人間が物体にあやまるという滑稽な情景である。? ? 外国へ行けば軍艦は国の代表であり治外法権の領土の一部であるから、天皇の軍艦として紋章のあるのもわかるが、小銃だけに御紋章がついていたのは奇異でもある。? ? 軍制研究の松下芳男氏によると、これはなにも天皇崇拝から出たものではない。維新戦争のあと各藩から政府に供出されたり幕府から没収した各国製のまちまちの型の小銃が、七〇万挺ともいわれた。これらの小銃を数種類に絞り込んで、政府軍の制式小銃としたさいに制式の識別マークとして刻んだのが菊花紋であったという。 それならば、ただのマークだから以後七〇年にわたる兵営内での三八式歩兵銃殿′はまったくナンセンスな悲喜劇でしかない。 敗戦となり天皇の隊が解体されたとき、建物の菊花紋は除去・廃棄処分となり、軍艦の艦首の菊花もはずされて焼却、水葬の運命となった。 小銃も武装解除で連合軍に引き渡す前に、やすりで御紋章を削り取った。






(了)
     

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