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平成の虚無僧一路の日記

東條英樹の横暴「竹槍事件」 

2020年03月11日 外部ブログ記事
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一国の総理大臣の指令で小中学校は休校、演奏活動は一斉停止。何やら現在は戦時中の様相を呈してきた。
「毎日新聞」で検索していて「竹槍事件」というのを知りました。太平洋戦争の末期、1944年(昭和19年)2月23日付『毎日新聞』に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と書かれたことに東條英機が激怒して、記事を書いた「新名丈夫記者」を即刻 召集、戦地に飛ばそうとした事件。記事は「勝利か滅亡か 戦局は茲(ここ)まで来た」という見出しで、南方における窮状を解説し、続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として「海軍航空力を増強すべきだ」と説いている。これは、海軍当局からは歓迎されたが、日本の敗色を明らかにしたことが、時の首相「東條英機」(陸相)の怒りをかい、毎日新聞は、掲載紙の発禁、編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は 編集責任者は処分したものの、新名記者の処分は行わなかったところ、その後ほどなく、新名記者が37歳にして召集された。いやはや、時の総理大臣が、一個人の召集権まであったとは驚き。同様のことが、前年にもあった。「中野正剛」の憤死事件。中野正剛は、毎日新聞から朝日新聞に転籍したジャーナリストで、政治家。1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。幸い尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできている」と、東條英機を痛烈に批判した。この記事に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じ、中野正剛を逮捕した。徳富蘇峰や鳩山一郎が、中野の釈放を各方面に働きかけ、松阪検事総長でさえ「こんな理由ではとても起訴はできない」と東條に反論した。東條は、「起訴が無理なら、中野の議会出席を停止させよ」と国務大臣に命じたが、これも「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論された。結局、中野は10月25日になって釈放されるが、帰宅2日後の10月27日、中野正剛は自宅で割腹自殺した。自決の理由は不明で、一説には、東條から「息子を激戦地に送る」と脅されたらしいとも。中野正剛ほどの気骨のある人物でも、「わが子可愛いさ」には負けたのだった。私の母方の従妹が、中野正剛の弟「中野秀人」に嫁いでいる。そのせいか、母は「東條嫌い」で、東條の孫娘「東條由布子」が、「東條秀樹擁護」の喧伝活動を起こしたことにも反発している。
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