メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

人工地震の研究は70年も前から 

2020年03月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し





太平洋戦争末期の1944年のアメリカで、地震学者たちが総動員され、日本近海のどこの海底プレートに強力な爆弾を仕掛ければ、人工的に巨大な津波を起こせるか研究がなされた。「強力な爆発物」とは、当時開発まもない「原爆」。
この機密計画は「地震・津波攻撃は日本人をパニックに陥れることで、神国日本や軍部独裁に対する不信感を醸成することにある。日本人が国家を捨て、個人の生存を第一に考えるようにするためのショック療法ともいえる」と記され、その会議以降、その年の内に地震兵器はそれが強大な兵器による人工的な日本への攻撃であることを知られずに、あたかも自然災害でもあるかのようなふりをして終戦直前ついに実用化された模様です。  
1944年12月7日です。志摩半島南南東沖約20Kmを震源として発生したM7・9の「東南海地震」。愛知、三重、静岡などで1223人の死者・行方不明者が出ています。  
米国の新聞は、「観測史上最大規模の大地震」「大阪から名古屋にわたる軍需工業地帯に大損害」と誇らしげに戦果を報じています。このときの津波は15mにも達し、志摩半島南岸などで村々を壊滅させたといいます。当時、米国が攻撃目標としていた、三菱重工、安立電気、中島飛行機などの工場乱立地帯がピンポイント的に壊滅的打撃を受けました。大地震が起こったのがちょうど軍需工業地帯だとは、いかにも出来すぎた話でおかしいと当時から度々うわさされていました。さらにこの地震に追い打ちをかけたのが、B29爆撃機編隊による名古屋空襲でした。終戦の年、1945年(昭利20年)の1月13日にも愛知県で直下型の「三河地震」が発生しました。M6・8、死者2306人に達する大地震です。   
終戦直前、半田の中島飛行機工場を襲った大地震:「地震の次は何をお見舞いしましょうか」とB29がビラ richardkoshimizu's blog/ウェブリブログ
米国による人工地震作戦は太平洋戦争末期に成功していたようです。
3.11の東日本大震災の場合は活断層に核爆弾(水爆?)などを仕掛けるというものだったと思います。
?
?

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ