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靖国神社の「鎮霊社」が再び非公開になったのは警備上だけの理由なのだろうか 

2020年01月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



神社が発行してる「靖国神社参拝のしおり」に「境内のご案内」がありますが、鎮霊社、元宮が説明されていません。
(歴史教育者協議会東海林次男さんの話によると、2016年6月以降鎮霊社と元宮は境内案内図からは消えているそうです。)

2000年4月に刊行された初版「公式ガイドブック ようこそ靖國神社へ」


初版の「靖國神社イラストマップ」の一部拡大図(管理人が一部加筆。)


現在の「参拝のしおり・境内のご案内」の一部拡大図


下記の毎日新聞記事にあるように、2006年から鎮霊社への参拝が出来るように入口木戸もつくられました。
しかし、放火事件後警備上の理由で木戸が塞がれましたが、参拝希望者は衛士に要望すれば木戸を開けてもらえました。最近は、その案内プレートも外されてしまいました。
ガイドの時は、南門側鉄柵の隙間から見てもらっています。
神社社務所は「放火事件以降は非公開にしていますが、境内案内図に掲載すると参拝したい方からの問い合わせが多いので削除しました。」と言っています。

作家保阪正康氏は毎日新聞紙上で、「鎮霊社は靖国の在り方と整合性が取れない面があり、隠したいという思惑もあったのではないか。」と述べておられますが、正鵠を得ていると思います。
「靖国神社創建の目的が国家のために一命を捧げられたこれら人々の霊を慰め、その事績を後世に伝える」(参拝のしおり)となっていますが、「御祭神は幕末の嘉永六年(一八五三)以降」が、肝心なところです。「安政の大獄」は徳川幕府による不当な弾圧であり、その犠牲者は「祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)」として合祀されいていることです。
よって、戊辰戦争の賊軍も、原爆・空襲犠牲者も合祀している「鎮霊社は靖国の在り方と整合性が取れない」ことになりますので、境内案内図から消し去り、参拝出来ないように木戸も閉めたのではないかと推察しています。

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>文字起こし<
 靖国神社(東京都千代田区)は12日から、境内に戦後創建されながら長く一般の参拝対象にしていなかった「鎮霊社」を32年ぶりに公開する。本殿脇にありながら、ほとんど存在も知られておらず、「合祀前のA級戦犯を祭っていた」との説もある。
同神社は「以前から参拝要望があったため」とA級戦犯問題との関連は否定している。【竹中拓実】
 鎮霊社は、1965年に当時の筑波藤麿宮司(故人)の発案で創建した。高さ約3bの小さな祠で、本殿の南にある。参道からは木立に埋もれて見通せない。74年以降は、鉄さくや垣根で囲み、希望者は案内していたが、一役は近づけないようにしていた。
 祭っているのは、1853年のペリー来航以降の日本の戦没者と、世界中で戦争のため亡くなったすべての人々。同神社が国に殉じて亡くなった246万人余りを祭るのに対し、それ以外を対象とする。西郷隆盛や白虎隊なども含まれるとされる。
 小泉純一郎前首相の靖国参拝が政治問題化して以降、同神社関係者からも「崇高な理念の素晴らしい施設。宣伝を強化すベきだ」という声が出ていた。秦郁彦日大講師が01年に月刊誌で、当時の同神社幹部に確認したとして「78年に合祀する前は、A級戦犯はここで祭られていた」と発表し、話題を呼んだ。
 今回、同神社は9月末に垣根の一部を撤去し木製の入り口扉を設置した。午前9時から午後4時まで参拝できる。同神社は「74年の北海道神宮放火事件を機に、警備のため鉄さくなどを設置した。いわゆる『A級戦犯』の方々が祭られていたとは認識いたしておりません」とコメントしている。
 作家、保阪正康さんの話 鎮霊社は靖国の在り方と整合性が取れない面があり、隠したいという思惑もあったのではないか。合祀前にA級戦犯が祭られていると考えた神官もいたろうし、これからA級戦犯の分祀先にもなり得ると考える人もいるのでは。靖国神社がどう世論と折り合いを付けるか模索する動きとして注目される。

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「防衛省市ヶ谷記念館を考える会」共同代表で、立命館大学名誉教授赤澤史朗氏は岩波書店刊『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』で、鎮霊社は平和憲法の基で一時期に靖国神社が平和主義を求めた証左であると評価されています。
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鎮霊社の創建
 このうち靖国国家護持推進派は、戦死者を国の手で顕彰することで初めて戦死者に対する生き残った者の責務が果たされ、戦死の意義が公認されて死者が報われるという発想に立っていたといえよう。こうした死者に対する責任意識は、ある種の倫理観に基づいており、それは現在の日本の国家のあり方を批判し、それを匡そうとする使命感と結びついていた。その使命感は、国家護持推進派の場合には、「英霊の顕彰」によって、戦後の日本に失われている「国家存立の根本たる道義確立をめざす」と表現されていた(「「新体制確立特別委員会報告書」から」、『日本遺族通信』二五〇号、一九七一)。つまり「殉国」を顕彰することが、国家の「道義確立」の基本なのである。
 ただし、こうして「殉国」中心の「道義」ということになると、この「道義」は国家への献身を讃美するもので、その国家に刃向かった者や国家との雇用関係のない一般民間人戦災死者や、特にかつて敵国に属した戦死者の「慰霊」とは、無関係なものとならざるをえない。ところが靖国神社では一九六〇年代中葉に、靖国神社の祭神でないこれ らの「御霊」の「慰霊」のために、別の小祠を境内に創建しているのである。一九六五年七月一三日に創建された鎮霊社がそれである。鎮霊社の祭神はすべてその名が特定されない祭神であり、その祭神は二座に祀られており、その一座に祀られているのが、嘉永六年(一八五三)以降の「幾多の戦争・事変に起因」きながら「靖国神社に祀られざる諸命の御霊」(これは日本人の祭神であろう)であり、もう一座が同じ時期の「幾多の戦争・事変に関係ひて死没にし諸外国人の御霊」である(『百年史』上)。一八五三年はペリー来航の年であったが、鎮霊社に祀られているのは一九六二年(昭和三七)までの「御霊」であるという(田中丸勝彦、二〇〇二)。
 祭神の死没の時期だけを限定して、将来にわたってその祭神を特定する意思を持たない無名の「御霊」を祀る神社というのは、神道の伝統に反するものであろう。靖国神社がなぜそのような異例の小祠を創建したのか、特になぜ、おそらくは賊軍として殺された者や、日本人に殺された旧敵国人を含むと思われる「諸外国人の御霊」まで祀ったのか、その動機は明確には示されていない。ただこの鎮霊社は、一九六三年秋に「欧米視察旅行で無名戦士の墓などを巡拝」した筑波宮司が、帰国直後にその創建を強く主張して、それが一九六五年になって実現したものといわれている(秦郁彦、二〇〇三)。この筑波宮司の「欧米視察旅行」とは、単なる視察でなく、前述の核兵器禁止宗教者平和使節団の一員としての行動をさすものであったことは、間違いない。つまり鎮霊社の創建は、靖国神社側が宗教者の平和運動に参加した唯一の機会と結びついていたのであり、そこにはおそらく、賊軍・敵国人まで祀ることで戦後の靖国神社の平和主義を深化させようとする筑波宮司の意思が存在したものと思われる(本書一六九〜一七〇頁参照)。そして従来から一般民間人戦災死者も「慰霊」している「みたままつり」の期間に合わせて、鎮霊社の鎮座祭がおこなわれたのであった。
 もしこの鎮霊社での「慰霊」に大きな位置づけを与えるなら、靖国神社における「慰霊」顕彰の内容は修正されざるをえないだろうし、それは靖国神社自体の内部改革の可能性をはらんだものともいえる。しかし鎮霊社は、社報『靖国』にも報じられないままコッソリとその鎮座祭がおこなわれたのであり、靖国神社国家護持推進派の「殉国」の観念や国家的「道義」の概念には、変化を与えるものではなかったようである。実際にその後毎年、「みたままつり」に合わせて鎮霊社祭典が挙行されているが、創建時の祭典を除いて神職のみによる祭典であり、他に参列者はいない模様である。広く戦争の死者を「慰霊」する鎮霊社は、後に靖国神社国家護持論に対する批判が強まる中で、靖国神社の側からその存在が喧伝されるようになるが、実際には国家護持推進派にとってはもとより、靖国神社自身にとっても位置づけの唆味な小祠に化してしまうのであった。

(本書一六九〜一七〇頁参照)の部分
平和主義の残存
 しかし一九六〇年代の靖国神社の中には、依然として独自の立場で「平和」を念願して、「殉国」と「平和」を結びつけた「慰霊」を考えようとする方向も存在していたのである。それは例えば一九六三年に靖国神社の筑波藤麿宮司が、核兵器禁止宗教者平和使節団の一員として欧米一三ヵ国を歴訪した、これまでにない行動にも見られるものであった(靖国神社宮司筑波藤麿「「靖国」第一〇〇号記念号に寄せて」、『靖国』一〇〇号、一九六三)。核兵器禁止宗教者平和使節団とは、一九六一年に社共が主導していた原水協の政治的偏向を批判して発足した右派系の核兵器禁止平和建設国民会議(いわゆる第二原水協)が取り組んだもので、この国民会議の代表委員である立教大学総長松下正寿を団長にして、日本宗教界の各宗代表者が欧米諸国首脳と会見し、核兵器禁止と世界平和実現を強く訴えるという趣旨で実現したものであった(立正佼成会、一九八三)。
 その筑波宮司は部分核停条約の調印を「平和共存への第一歩」と積極的に評価し、訪問した各国の戦没者の墓などに参った感想として、靖国の祭神を始めとする世界の戦没者の「神々」は、「世界平和」を「念願」する存在なのであり、「それぞれの宗教的行事の相違や、人種的差別を乗り越えて」、今も「世界平和」のために「活躍」しているのだとの意見を述べるのだった(宮司筑波藤麿「年頭の御挨拶」、『靖国』一〇二号、一九六四)。
 ここには国境を越えた「平和」擁護こそ、戦没者の「念願」であるという理解がある。また、筑波宮司は一九六五年の「年頭の御挨拶」の中でも、「大東亜戦争」を始め戦争をする各国は、とかく自国の戦争を防衛戦争として「説明」するが、「如何なる理由にせよ話し合いで事を解決し、実力に訴える事は極力さけるべきであります」と述べるとともに、広島での被爆によって現在も「毎日を苦しんで居られる同胞のあることを考えて」、けつして戦争をしてはならない、日本は「世界平和」の「指導者」にならなけれ ばならないとし、「世界平和」のための「英霊の御加護」を祈り願うのであった(『靖国』一四号、一九六五)。

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鎮霊社(左)と元宮(右)






元宮から拝殿広場を見る。


鎮霊社左側に「北関大捷碑」があった。

「北関大捷碑」

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新宿平和委員会発刊「ガイドブック 葵から菊へ」(絶版)から
「北関大捷碑」
以前、遊就館の隅にあつたが、現在は本殿回廊左側の鎮霊社隣に石碑が建っている。
上部に「北関大捷碑」と書かれているこの碑は、現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に位置する威鏡道(ハムギョンド)から持ってきたもので、秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の後に地元で建てられたものである。この碑には、「朝鮮国威鏡道壬辰義兵大捷碑」と書かれ、碑の両面にピッシリと碑文が刻まれている。この碑は、朝鮮の威鏡道(=北関)で秀吉の朝鮮侵略、「=壬辰倭乱(イムジンクエラン)=文禄の役」の際に、民衆が義兵となつて立ち上り、(義兵大将鄭文字)日本軍を撃退したごとを記念して建立された碑である。【注】韓国では「慶長の役」を「丁酉再乱(チョンユジュラン)」という。
「大捷」とは「大勝」のことで、一五〇〇字の碑文には、地元の「義気のある士」たちがいかに勇敢に戦って日本の武将加藤清正の軍を撃退したかが、ギツシリと又、いささか誇らしげに書かれているらしいが読みとることができない。
しかし、何故この 「朝鮮民衆が日本の侵略軍を打ち破った」記念碑が、日本の、しかも「無敵皇軍」を祀る靖国神社にすえられているのだろうか。本来この碑文は吉州の臨漠駅にあつたが、日露戦争後の一九〇五年、朝鮮とロシアの国境付近でこの碑を見つけた池田少将は、一九〇七年、上司の北韓進駐軍司令官後備第二師団長の三好成行中将が帰国の際に託し、凱旋の土産として広島から東京へ移送され、振天府(皇居内に設けられた戦利品陳列所)に献上したものである。この背景には、同碑文に朝鮮義兵が日本の清正軍を打ち破ったなどという内容があるのは、「日本・朝鮮両国民の感情を害する」ものとして撤去するという目的もあつた。戦前には「同碑文は朝鮮側の敗北を隠蔽するためのもの」という論文も発表された。
その後、皇居から靖国神社の遊就館前に移設されが、遊就館の改修を機会に現在の場所に移設された。
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公開されていた時は、何回も鎮霊社をガイドしてきました。












門扉に貼られた閉鎖のお知らせプレート


現在は何の表示もありません。


(続く)

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