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1945年9月2日「降伏文書調印」とともに「一般命令第一号」によって38度線の分断は確定された 

2019年09月02日 外部ブログ記事
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外務省外交史料館 戦後70年企画 「降伏文書」「指令第一号」原本特別展示「降伏と占領開始を告げる二つの文書」より

『降伏文書調印とともに連合国から日本政府に手交された最初の指令には、日本の陸海軍に対する命令の第一号(一般命令第一号)を遵守させるべしとの主旨が示されました。添付された一般命令第一号では、対日占領の前提となる日本軍の戦闘停止と武装解除の手続き、軍事施設、捕虜・抑留者に関する情報提供、外地日本軍の降伏相手先など、軍事事項の細目が規定されていました。』

38度線の成立と朝鮮半島分断(ウィキペディア)は、次のように言われています。

1945年8月9日、ヤルタ会談の取り決めに基づき、大日本帝国に宣戦布告したソ連は、ソ連対日参戦により満州国と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。この状況を受けてアメリカは対応を検討し、ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、ソ連に対し半島の分割占領案を提示する事が決まった。
8月10日から11日にかけて国務・陸軍・海軍調整委員会において「北緯38度線で暫定分割する」という案が画定され、ハリー・S・トルーマン大統領の承認を受けた。この案はソ連側に提示され、8月16日にソ連はこれに同意する。8月17日には一般命令第一号によって38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏することが決定された。この命令はポツダム宣言を受諾した大日本帝国に伝達され、9月2日の降伏文書調印後に大本営によってこの方針が指令された。


管理人が以前、靖國神社偕行文庫室からコピーした「朝鮮軍報導部長 長屋尚作 朝鮮の状況報告」が手元にあります。
同報告に添付された8月21日「陸軍大臣稔彦王」(注)の文書と、9月9日「降伏書正文」を転載します。
(注)
ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後にあたる1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮は内閣総理大臣に任命された。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日 - 23日)、東久邇宮が兼任した。








以上の目次内容は靖國神社偕行文庫室で閲覧して下さい。















管理人が作図した朝鮮半島分断図


(了)

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