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世田谷区の戦争遺跡「玉川神社地下壕跡」の資料 

2019年07月31日 外部ブログ記事
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さる23日に、日産厚生会玉川病院で股関節人工骨置換手術の定期検査をしました。
帰途に瀬田玉川神社本殿で参拝し、玉川地下壕跡を探しました。
昨日の「上用賀公園拡張工事の意見交換会」終了後、世田谷区教育委員会文化財係から「198年滝ヶ谷遺跡?」を頂きましたので、より詳細が判明しました。

防空壕(第34図,図版1)
 防空壕の存在については、1982年10月〜11月にかけて実施された玉川神社西横穴の調査結果から明らかになっていた(封比地秀行他1983「玉川神社西横穴」『世田谷区遺跡調査報告4』)。また、参道北側の工事中にも防空壕の一部が発見され、防空壕がかなりの規模であったことが判っている。そのため、?浅沼組では防空壕の位置を明確にするため?地盤調査事務所に依頼して確認調査を実施した。まず、物理探査(弾性波調査屈折法)によって、どの位置に空洞があるかどうか確認を行った。位置が判ると防空壕上を目標にボーリングを行い、安全性を確認する意味で防空壕内のガスを採取し、メタン等の濃度測量を実施した。安全確認後、立穴を掘り、土留枠で崩壊を防ぎ梯子を取り付通路とした。その後、立坑内に測量基準点を設定し、坑内測量を実施した。この結果は、?地盤調査事務所1987『世田谷区瀬田4丁目計画敷地内防空壕位置調査報告書』にまとめられている。以下の記述は、この報告書を援用させていただいた。
 防空壕は、本遺跡の立地する台地の下、現地表下3〜8mのところに掘削されている。防空壕は、120×90mの約10,800m2区域内に東西方向に3本、これと千鳥に繋ぐように南北方向に10本、延べ564mが確認ざれた。壕は高さ2m、幅2mで天井はアーチ形を呈し、断面形はかまぽこ形をしている。壕の内部には生活水の確保(井戸)、トイレ、燈明棚等が付設され、底面には排水溝が設けられている。底面は西→東、南→北へ約3mの高低差がある。入口は6カ所ぐらいあったと推定される。
 また、壕内の所々に土が盛り上げてあり、人間二人しか通過できないようになっており戦略的なものと考えられる。
 防空壕の掘削時期は、1944年(昭和19年)で、陸軍の司令部が相模原方面に対する防衛拠点として、秘密裡に卜ロッコを使用して掘削したものといわれている。しかし。実際に使われた痕跡は認められなかった。 (品川裕昭)
(傍線は管理人)

(赤字は管理人)

世田谷区議会上川あや議員より提供


ダンフォール作戦の第二弾「コロネット作戦」
オリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する作戦である。上陸予定日はYデーと呼ばれ、1946年3月1日が予定されていた。コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、それまでで最大の上陸作戦となる予定であった。上陸地点は湘南海岸(相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東京都区部へ進行する計画予定)と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。湘南海岸には第8軍、九十九里浜には第1軍が割り当てられていた。
(傍線は管理人)

玉川付近拡大図




グレースコート神苑から玉川神社の森を俯瞰

グレースコート神苑入口

瀬田玉川神社社号標

玉川神社境内とグレースコート神苑の境界から地下壕跡らしき痕跡を探したが見つからなかった。








(了)

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