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雑感日記

昭和57年(1982)48歳  前半 嵐の前の何とやら、静かであった 

2011年06月28日 外部ブログ記事
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★国内市場を担当して4年目を迎えた。
入社以来、9回目の異動で、大体3年で動いている。
まるまる4年間、同じ職場にいたことはない。 この年あたりもうそろそろ次の舞台へ移るのではと自分自身でも感じていたし、周囲もそう見ていたようである。
そしてその方向は、アメリカか事業部の中枢か、そのどちらかだと言うこともよく解っていた。
国内関係は、その担当1年目が無茶苦茶に良くて、累損も消去出来たし台数も稼げたのだが、それに比べて主力のアメリカ市場の実績は年々悪化の一途出会ったしその影響を受けて、事業部の状況も散々だったのである。
前年度に高橋鉄郎さんと田崎さんがKMC担当でアメリカに渡られたのだが、3月に出張で帰国された時には、
『ちょっとアメリカに来て、手伝え』などと言われて、『6月には出張で一度現地を見に来い』などと言われたりしていたのである。
大がかりな財務対策の手を打った本社も、末端のKMCの状況がどうにも改善しないので困り果てていたようである。
4月には本社の山田常務が元々の単車出身ということもあって、単車担当と言うことになったのである。
山田さんは、神戸一中、一高、東大(航空機)と言うまさに秀才コースを歩かれた方なのだが、中学の先輩でもあり、単車の部長時代はレースを担当されて、一緒にライダー契約やいろんなことをやったレース仲間の先輩でもあり、気心も知れていて、山田さんが単車担当になられたら、どこになるかは別にして声が掛るのは間違いないとも感じたのである。
 
★カワサキの技術陣はホントに優秀なのだが、事販売などに関しては経験をした人がホントに少ないのである。
6月アメリカから高橋さんが来られて、国内のカワ販籍の富永君を正式にKMCに出してくれとの依頼を受けたのである。
富永君はこの年東京対策で明石から東京に異動したばかりで、ご本人の意向も解らなかったが、それも聞かずに内諾をしたのである。それほどKMCの状況はひどかったし、彼は国内のマーケッテングの頭脳のような立場だったのだが、必ずKMCではお役に立つと思ったのである。
ただ、彼一人で出すと潰れてしまってはいけないと、管理畑の日野君とのペアで川崎重工への販社からの逆出向を決めたのである。これが5月末のことだった。
そして7月1日に、その時点では専務に昇格されていた山田さんに本社に呼び出されて、10月から事業部の企画に戻れと言う指示を受けたのである。
10月から事業部企画に戻ってアメリカを担当することになったので、彼らと一緒に仕事をすることになるのだが、彼らのアメリカ出向が決まった時点では、私自身の話はまだなかったのである。結果論として、彼らがアメリカにいてくれたお陰で、販売関係に関する日本とアメリカの会話が、あるレベル以上で話が出来たことは事実なのである。
残念ながら、事業部の人たちと販売関係の話をするときには、半分以上が説明をしないと先に進めないのである。これは逆に私などに技術の話をしても、説明が入らぬとそこから先は何も解らないのである。
ある一定以上の水準の人同士の話は、そんな説明抜きで高いレベルの話に終始出来るはずである。 仲間同士の会話がスムースなのはこんな事からだといまでもそう思っている。
 
★そんなこの年の前半、一般社会では2月8日に東京でホテルニュージャパンの火災があり、翌9日には羽田でJALの墜落事故があった年である。
キヨさん、清原明彦くんが3月6日に初めてのバイク屋の店をオープンしたりしている。オープンセレモニーにはカワサキのレース関係者など多数参列している。勿論参加した。彼の店の申請を受けたのは私なのである。『レースと違うのだから、ちゃんと事業計画を出せ』と言ったら、誠に綺麗な字の計画書が提出されたのである。『誰に書いてもらった?』と聞いたら『私が書きました』と言う答えが戻ってきて、びっくりした。
もうあれから30年が経とうとしているのである。
業界活動も特にホンダ、ヤマハの競争が表面化する直前で、いろいろと厳しかった。
ホンダ佐藤さん、ヤマハ角川さん、スズキ開発さんという論客ぞろいで、なかなかオモシロかった。こういう場では、いつもカワサキはちょっと離れていてと言うか、3社さんからは本当のライバルと思われていない節もあって、カワサキがまあまあと言うと何とかなるのである。
特にホンダの佐藤英明さんとは、この数年前からその後10年以上も、ずっと自工会企画部会などでのお付き合いで、いろいろお世話になったのだが、いまどうしておられるのだろう。佐藤さんも長かったが、私も結構業界関係は長かったのである。
 
★この年息子は、関学のサッカー部?に入学した。当時は、いまのように推薦入学制度がなくて、受験でしか入学の道がなかったのである。
高校3年の夏まではサッカーばかりに熱中していたのに、夏を過ぎたころから一転受験勉強を始めた。
それもちゃんと毎日の日課をスケジュール化して、それをきっちりと守るのである。秋の国体選抜の推薦も断って半年間勉強ばかりしていた。そのスケジュールは正月三ヶ日も崩していない。 これは私のいい加減な性格ではない。間違いなく母親譲りである。
大学は関学と同志社に通って、同志社は1部、関学は2部だったのに、何故か関学を選んだ。理由を聞いたらヤンマーで釜本とコンビを組んでいた阿部さんがドイツでコーチ留学をして帰国して関学のコーチになるからだと言う。
私はこのころ息子の大学の進路相談も、このような決定もみんな蚊帳の外で一切相談にも乗っていないし、相談も受けていない。
それ以降も、いままで息子とは、釣りに行ったり、サッカーを見たりよく一緒に遊んではいるが、相談を受けたことは就職も、結婚も一度もない。
多分、小学校のころに『男の子は自分のことは自分で判断して、チャンと決めろ』と言ったことがあるが、これが効き過ぎているのだと思う。
 
昭和57年前半は、こんな年であった。 後半は一転大変なことになるのである。
 
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