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平成の虚無僧一路の日記

福沢諭吉は芸術、宗教にオンチだった? 

2019年03月29日 外部ブログ記事
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「福澤諭吉」は、実利主義といいますか、「美術や文学」そして「宗教」については、無関心だったようです。書画骨董の趣味も無く、庭いじりをすることもなく、塾出身者が茶の湯や謡曲などにふけると叱ったといいます。もっとも侍は寄席や芝居小屋への出入りはしないのが建前でしたから、江戸時代は観たこともなかったのでしょう。福沢諭吉が、寄席を観にいくようになったのは、明治5、6年頃からでした。これも演説の参考にするという意図があったようです。福沢諭吉が初めて「新富座」に芝居を観に行ったのは明治20年。「福沢先生芝居を観る」と「時事新報」に記事が載ったほどでした。そんな福沢諭吉でしたが、娘達には琴、三味線、長唄、舞踊など、自宅に師匠を招いて稽古事を習わせ、自宅でおさらい会などを催して、喜色満面だったといいます。福沢諭吉の次男が「捨次郎」。父「諭吉」は「妻以外に結婚前も後も一人も女子との接触はなし」というほどの潔癖性でしたが、子供たちは自由奔放に育てられ、芸者遊びも派手でした。「捨次郎」が京都の芸者に生ませた子が、私の尺八の師「堀井小二朗」です。「捨次郎」の子ですから「小次郎」が本名ですが、それを嫌って、芸名は「小二朗」と名乗っていました。堀井小二朗師は、京都で生まれ育ち、幼少の頃から母の長唄、地唄を聴いて育ち、8歳で「八重衣」を諳んじていたといいます。そして、父「捨次郎」の庇護のもと、慶応に入学し、池上に家屋敷も与えられていました。

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