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2019年02月20日 外部ブログ記事
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 「小袖曽我」講義第二回

 清水先生による「小袖曽我」第二回講義を聴くため大岡山へ出かける。今日の講義の中心は、武士の成り立ちと源氏、平家の勘違いについてである。そもそも平氏は50第桓武天皇の子孫である桓武平氏が武士となり平氏と言われたものである。平家はその一族の武士たちで、第54代の仁明天皇の子孫である仁明平氏、第55代文徳天皇の子孫である文徳平氏、第58代光孝天皇の子孫である光孝平氏はすべて武士ではなく貴族であった。桓武天皇の曽孫、高望王の息子の長男・国香の子孫が平清盛等の伊勢兵士となった。

 源氏のルーツは河内にあり、平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源義朝は知多半島で処刑され、長男、次男も処刑される。三男の頼朝は伊豆蛭が小島に流罪、九男の義経は鞍馬山に預けられた。1180年に源頼朝(伊豆)、木曽義仲(長野)が挙兵するが石橋山の戦いで、敗れた頼朝は船で上総に逃れる「七騎落ち」が、上総で兵を立て直し鎌倉に入る。鎌倉幕府の御家人達、三浦義純、和田義盛、高畑重忠、川越重頼、梶原景時、千葉常胤、土肥実平等は関東土着の平氏たちであった。頼朝の妻・北条正子も北条家(伊豆半島の中央、・北条辺りを収めていた)の出で平氏である。

 曽我兄弟の父が殺害された赤沢の巻狩り(1176)の仇討が能「小袖曽我」の背景にある。当時の伊豆半島は工藤家、藤原家系(場所の名前により、伊東、河津、宇佐美、加納等の性を名乗った)、北条家などが勢力を持っていた。このように見てくると、源氏、平家の当初の武士のスタート時点における勢力圏とその後の源平の戦いも少し違った視点が出てくるから不思議である。日々是好日。

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