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独りディナー
母の「我が道」
2018年11月06日
テーマ:思い出すままに
はっきりとした、亡き母の夢を見た。
実に元気な母であった。
体力もそうだけれど、とにかく気力が・・
今朝の夢も、何故か私は母の後を追いながら、自転車で名古屋から、東京へ向かっているのだった。
「ゴーイング・マイ・ウェイ」というのが、どうやら周りから見た、母を表す言葉だった様だ。
本人が知っていたかどうかは、わからないが・・。
ピアニストになりたかったのが、気付いたときは既に、早期教育の世界には乗り遅れていて。
いつの頃からか、子供には早期教育を、と決心していたらしい。
だから私は、生まれた時点から、音楽の早期教育を受けさせるべく、環境が整えられていたのだった。
只、母の大きな誤りは、娘の意志という存在を、忘れていたことだろう。
その頃は、音楽の早期教育が言われ始めた頃で、周りにも早くから習い始めていた子が多かった。
しかし、毎日続ける練習が、勉強時間の妨げになる、という大義名分で、次々とピアノレッスンから離れていく従姉妹達をみて。
母は、彼らを意志が弱くて続けられないのだ、と密かに切り捨てていた。
その母親に育てられていた私だから、挫折することなく練習する事に、いつしか誇りすらもつ様になった。
中学の頃、東京の先生に教えて貰うために、母と私達姉弟は、大学の教師だった父を一人残して、上京した。
父は、もともと東京育ちだったので、いずれは故郷に戻ろうという考えがあったのだろう。
父が、東京の大学に転任したのは、私の大学入学後だったから、結構別居生活は長かった。
その間、母は「夫は、丈夫で留守が良い」状態を、存分に謳歌した。
しかし、その謳歌ぶりが、我が道、なのであった。
弟は、小さいときからソルフェージュ力に優れていたので、将来の道は作曲家、とこれまた周囲に期待されていた。
中学二年から、高名な作曲家の門下生となり、隔週にレッスンに通い始めた。
母は、あろうことか、毎回そのレッスンに付き添っていき、弟に出された宿題を、自分でも始めたのであった。
毎回、自分のノートを持参しながら、レッスンに付きそう、そんな女学生みたいな母の行為を、温厚な先生が黙認して下さるので、それからの母の毎日は作曲の勉強に明け暮れた。
真面目な母は、特に才能に恵まれていたわけではなかったので、朝から晩までピアノの前に座って、課題のノートに音符を書き込む生活が続いた。
私達姉弟よりも、ピアノの前に座っている時間は長かっただろう。
そして、私達が志望大学に入学した後、母の歩んだ道こそ、「我が道」であった。
母は、若い人達に混じって、ヤマハ音楽教室の先生に、なったのだ。
これには、私もビックリした。
しかし、弟の横で学んだ作曲の基礎勉強が、大変役にたったらしい。
ヤマハ音楽教室は、演奏能力よりもソルフェージュ力を延ばすという、教育方針だったので、母にとっては最適な場所であった様だ。
一人暮らしを続けていた父が、心臓弁膜症の病を得たのと、母が水を得た魚の様に教え始めたのと、どちらが先だったかは、憶えていないが。
ここでも、母は我が道を選んで、父の元に帰る事はなかった。
まぁ、この時は母一人の選択ではなかった、とは思うけれど・・。
私自身、大学くらいまでは、母が自分の事のように私の前にレールを敷いてくれたので、私は只練習に専念していれば良かったのだけれど・・。
言うまでもなく、人の敷いたレールの上で、自分の音楽を表現する事なぞ、出来るわけは無い。
私が、どんどん母の道から、分岐していくのは当然であった。
でも、一心同体のように思っていた母にしてみると、自分の道は何時も、一本であるべきだったのだろう。
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