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<心に成功の炎を>91 

2018年07月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 <訓言十三> 人生の苦悩というものは 絶対的なものかということ。つまり逃れあたわざるものか否かということ。

 それについて私はこういう解釈をつけている。人生の苦悩はけっして絶対的なものじゃない。むしろ苦悩に応対するときの心の態度で その苦悩を感ずる程度が違うことを考えてみると これはどこまでも相対的なものだと断定していい。ここいらは少しむずかしいんで おわかりにならないかもしれませんが こういう断定を 私の哲学から私自身が強く信じているのであります。
 人生の不幸というようなものは ほかからふってわいてくるように自分の人生に飛び込んでくるもんじゃないんだ。ここいらがあなた方と私と考え方が違っている点なんですよ。人生の不幸というものは 人自ら 自分が知る知らざるとを問わず 生んだんじゃないか。
 いつもよく吟味してみると 不幸というものはみんな 自分自身が原因となっているという内的事情が発見されます。この内的事情を発見しないと 何か思わざる不幸ができてくると その原因は他にありと考えてしまい その不幸に処する場合に 自己に責任観念がないから どうしても自分というものをその不幸の淵から救いあげることができないという 醜い結果がきちまう。
 ということを 私は私自身の常にモットーとして 現在でも 昔から生きております。
 こういうとわかるだろう。あなた方はこの天風の話を聞かれてから後 みんな一様に なかには生まれ変わったように <このごろはもう幸せに生きております>というのは 結局自分の人生環境に対するあなた方の心の態度が違っちゃったからだろう。
 いままで大げさに苦しんでたり 悩んでたことを 今度は少しもそれを苦しみとも感じなきゃ 悩みとも感じないというような事柄からじいっと考えてみると その結論は いま言ったように 人生の不幸は 人自らが生んだんだということに気がつくはず。
 もうちょっとわかりやすく言えば 自分の心がある事柄を不幸と感じたから不幸になる。不幸と感じなかったら不幸にならないはずだ。
 よく講演のときも申しあげているが 熊沢蕃山という人が <憂きことのなおこの上に積もれかし 限りある身の力試さん> といった言葉 だれでも知ってますでしょう。
 ああいう要するに尊い自覚を持った人には おそらく一生を通じて 憂きごとというものはなかったでしょう。
 凡人から見りゃ あの人は ずいぶんそれは憂きごとだらけのように見える人だったんだ。親一人 子一人の境涯で食うにも困っている 人の田地田畑を耕してる小作人だよ。しかも水呑百姓で一生終わる覚悟だったら たいした苦しみもなかったでしょうけれども それでもなおかつ 学問してえらい人間になりたい せめては現在よりも賢い知識を得たいという求める気持ちをもってたために 与えられるものが少ない場合における悩みはずいぶん大きなものだったろうと思うけれども それを悩みとしなかったんだから あの人は悩みを知らなかった人だといっていい。
 こういう事実の上から考えてみると なるほど 不幸だとか幸福だとかというのは その人の考え方だもんね。考え方が人生を幸福にもし 不幸にもするという点から考えりゃ 人生の不幸は我自らが生んだんだという言葉に間違いないでしょう。これは常に私が私自身を どんな場合でも ああ 恵まれてるなあ 幸いだなあと思わせしめてくれて 今日までずうっと いつも感謝の捧げきれないほどの楽しみで生きてる 一番尊い 私への自己訓戒なんです。
 
 <訓言十四> 運命に関する悟り

 運命よりも心のほうの力がまさっているときには 運命の力はいつも心の力の配下になってしまう。もう一つ もしよくない運命がきたならば それを悔やむ前に 厳かに自分で自分を裁判すべし。
 私は 自分のできること以外のことは言いませんから 聞きながら <そんな難しいこと 天風先生はできたのか知らん> と思ったら まだあなた方の修養が足らないんだと考えなきゃだめだよ。もしよくない運命がきたならば それを悔やむ前に 厳かに自分で自分を裁判する。

ー続くー



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