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<心に成功の炎を>65 

2018年06月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 <強靭>の篇 <303頁>
 
 第七章 虚心平気 

 修練会のときに雨がふると表に出て運動ができないので その時間は必ず講演をするということに いつの頃からか 相場が決まっております。
 終戦前までは 日露戦争当時 およびその後の私の軍事探偵生活の中の 命がけで切ったり張ったりしたあれやこれやをお話するという習わしにしておりましたが 現在は戦争時代の話をしても ピンとこない人が多くなってしまったんで もっぱらあなた方の修養のなにか参考になることをお話することにしています。 
 かりそめにも道を説く私が 普通の講談師のやるような話で ただ一夜あなた方を喜ばせてみたところで収穫は極めて乏しいと思うので お道に関する昔あった話をお聞かせしようと思います。
 だから 芸人の講談を聞くつもりでなく 教えを聞くつもりでこの講談をお聞きなさいよ。

 さて今日は 私が大正7年にトラの折の中に平気で入った(「盛大な人生」87頁参照)ときの心構えが 一番最初につくられるもととになった話です。
 思い出すと もう七十何年前に聞いた話です。私が七つのとき聞いた一龍斎貞山の話なんだ。今 その人が生きていると さあ百にもなろうかなあ。
 日本橋にあった講談の定席で 聞いてためになる話をしてくれる人だから 一緒に聞かせてやろうといって 父に連れられていって その夜にはじめてこの話を聞いたんです。帰りがけに父に<ああいう気持ちになれば 天下恐るることろのものは何ものもなし。やがてそちも時を得れば大名になる>といわれた。まだその時分のおやじはそう思っていた。
 明治維新の直後から明治25,6年ぐらいまでは またふたたび大名の世がきて 往来を帯刀の者が歩ける時がくるに決まってると思っていた。それかあらぬか 子供のころに覚えていますのは わたしの15,6歳ぐらいまでは 東京の真ん中でもまだチョンマゲを結って歩いてる者が多くて そして刀を一本差して歩いてる者がとがめを受けずにいたものです。
 とにかくその当時の人間は またふたたび大名の世界がくると思っていたのですから 親もやはり こういう話を聞いておけと思って聞かせたのでしょう。
 <天下の主となるべき者は 強き者の心がけが大切じゃ>なんて 聞いてる私は子供ですからね<あんな気持ちになれるかしらん>と思った話が やがて大きくなって 平気でトラの檻の中に入れる人間になれたわけだ。
 
          *

 徳川家光が三代将軍になって間もない頃の話。その当時は 朝鮮から貢物が必ず1年に一度ずつ来たものだ。
 将軍になってから3年目のときに 朝鮮国王が送ってきた品物の中に 日本人がはじめて見る虎というものがあったんだ。それまでは日本人で虎を見た者はない。
 だから あの応挙という人が描いた虎は猫みたいなもんだ。それからそれへと 耳から耳に伝わってきた話をもとにして 虎というのはこうもあろうかいなと思って描いたのが 応挙の虎なんです。本当の虎を見て 応挙の描いた虎と違ってることがわかったんですが。
 何はさておき 百獣の王 山河震わす猛獣であります。気性の荒い家光が これを贈られて喜んだの喜ばないの。三代にして徳川の礎をかためたという家光も 将軍になりたては気随気ままな暴君だった。
 あの人がようやく将軍らしい人間になりえたのは35歳を越してからだ。もっとも 48でもって早死にしてます。昔の大名や将軍が早死にするのは 酒の飲みすぎと 女に手をつける度数が多かったから。
 昔の時代なんていうのは悠長なもんで 大名や将軍は多くの妾をもっていた。家斉将軍のごときは45人の妾をもったというんだから これは忙しかっただろうな。
 お百姓の子に生まれて天下をとった豊臣秀吉も 公方将軍にならなかったら あんなに早死にしなかったろう。秀吉も気の毒に 62歳で胃癌で死んでます。まだ出世しない間は さなきだに あの顔ですから 女はできそうになかったんだが 日本六十四州 天下平和な様を呈すると 失礼ながら女というものはあさはかなもんで 顔がちと悪かろうと ひょっとこであろうと 権力があって金があるというと自由になる。

―続くー



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