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スターリン「独裁者3人(ムッソリーニ、ヒットラー)の”狂気”」 

2018年06月21日 外部ブログ記事
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スターリン(ソビエト一党独裁が生んだ独裁者)

 ☆スターリンは、恐怖によって国民を支配した
 ☆独ソ戦では特殊部隊を作る(狙うのは、敵でなく味方)
 (戦場から退却しようとする味方の兵士を狙撃させた)
 ☆退路が断たれたソビエト軍の兵士たちは、半ば自暴自棄になってドイツ軍と戦う
 ☆ドイツヒットラーとの交渉で息子の人質解放の申し出を断る
 (自分の身内でさえ、その人間がいなかったかのように忘れてしまう)
 ☆第1次世界大戦後の革命運動が後退すると,革命ロシアは孤立の中で国内建設を余儀なくされた
 ☆スターリンによって唱えられたのが一国社会主義論
 ☆レーニンが革命時に想定していたのとは異なった新たな状況の産物でした

スターリンのプロフィール
 ☆グルジアのゴリの靴屋の子に生まれる
 ☆神学校在学中にマルクス主義の洗礼を受け、職業革命家の道に入った
 ☆レーニンの指導下に、ボリシェビキ党の中央委員になり、機関紙『プラウダ』の刊行に参加した
 ☆レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を著した
 ☆十月革命では、レーニンの即時蜂起論を支持して活動した
 ☆対ドイツとの戦争では、国民の愛国心に訴えてドイツへの反撃に成功
 ☆書記長、国防委員会議長、ソ連軍最高総司令官を兼務し、1943年には元帥となる
 ☆権威のもとに国民を結集して戦勝に導く一方、戦後世界秩序の枠組みをつくった
 (書記長、国防委員会議長、ソ連軍最高総司令官を兼務し元帥となる)
 ☆戦後その権威により引締め政策を国民に強いたが、1953年脳出血で死去した
スターリンによるトロツキー排除
 ☆スターリンは、レーニンを首班とするソビエト政権に民族人民委員のポストを得た
 ☆スターリンは、レーニン、カーメネフ、ジノビエフ、トロツキーとともに5人の政治局員の一人となる
 ☆スターリンは、要員の配置を通じて党内の絶大な実権を手中にしうる地位についた
 (スターリンの権力の集中を病床のレーニンの深く憂慮した)
 ☆レーニンは、スターリンの後継指導者の資質に懸念を抱く
 (レーニンの病状悪化で、スターリンの政治生命は救われた)
 ☆党大会でスターリンは書記長に留任し、トロツキーの権威失墜を図り、トロツキーらを党から除名した
スターリンの「大粛清」と反対勢力の排除
 ☆党と政府を一身に掌握する独裁的政治体制を築いた
 ☆急速な工業化と農業の全面集団化はこの強権のもとで強行された
 ☆キーロフ暗殺事件を契機に「大粛清」を開始
 ☆「大粛清」の対象は旧反対派幹部、古参幹部党員、軍首脳部、一般党員、一般市民にまで向けられた 
 ☆「スターリン憲法」が制定された
スターリンの対外政策
 ☆対外面では西欧民主主義諸国との協調による安全保障の道も追求した
 ☆これが失敗に終わるとナチス・ドイツとの間に不可侵条約を結んだ
 ☆独ソ戦では緒戦で大敗北を喫した(スターリンの楽観的予測に起因)
 ☆国民の愛国心に訴えて反撃に成功した
 ☆第二次世界大戦後、戦後世界秩序の枠組みをつくった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHKスペシャル <新・映像の世紀> 、日本大百科全書(ニッポニカ)












スターリン「独裁者3人(ムッソリーニ、ヒットラー)の”狂気”」
(NHKスペシャル <新・映像の世紀> テレビ画面より画像引用)

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