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such is life
子どもの日
2018年05月05日
テーマ:such is life
人はいくつになっても、かつてふれたと思うが、精神のなかに豊かなコドモをもって、それを保っていなければならないだろう。
そうでなければ、精神のなかに何の楽しみも生まれないはずであると思われる。
すてきな音楽をきいて、あるいはまた、すばらしい絵画を見て感動するのは、自分のなかのオトナの部分ではなく、コドモの部分だと思われる。
コドモは空や雲を見るだけで、宇宙飛行士になったりシャングリヤを描いたりする。
この瞬間、コドモはたちどころに感性あふれる詩人になるのであろう。
人は終生、その精神のなかのコドモを大切に育てていかないと、年を重ねるにしたがって消えてしまう。
ここでいうコドモというのは、成人仲間にみられる子どもっぽさとか幼児性ではない。
いくつになっても、他人に甘えぱなしの成人がいるが、これはコドモが豊かなのではなく、オトナとしての義務や節度から逃げている疑似(ぎじ)コドモであるにすぎない。
ついでにいうと、このナビのなかで、人のブログに嫌がらせ的な誹謗中傷の書きこみをする人がいると、しばしば耳にするが、
こうした秩序感のない、はめはずし的な行為は、顔が見えないことをよいこにして、と考えると、卑怯卑劣な行為である。
もし「被害」にあわれた方がいらしたら、相手を、幼児性のあるオトナだと思い、相手をしないことであろう。
話を戻すが、この世のたいていの職業は、オトナの部分で成立していると思われる。
こうしたナビの世界では、想像や創造を楽しみたいものである。また心なかに鬱積しているモヤモヤを自由に発散することも必要であろう。
感動のある人生をおくるためには、自分のなかのコドモを蒸発させてはならないだろう。
ぼくは個人的に、このナビを自分のなかのコドモを蒸発させないための「水やり」のひとつだと考えている。
子どもの日子どものようだとまた言われ
風来
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