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such is life
菫と漱石
2018年04月30日
テーマ:俳句
菫(すみれ)ほど小さき人に生まれたし
夏目漱石
漱石は愛読していたが、すべてを理解しているわけではないが、思い入れると、漱石の生涯が、この一句で匂ってくるように思う。
句は、現在の自分を否定しているように感じる。
再構築していこうという気分も香るが、悲しみが手のなかに残った。
しかし、この悲しみは、文学の基本であるようにも思う。
「五・七・五」という17字から生まれているこの静寂な余韻は、漱石という人物を幾重にも想像させる。
漱石が菫をまえにして感じた思いを、私たち読み手はこの句をまえに推し量ることができる。
「漱石はいったい、どんな思いで詠んだのだろうか」と想像することによって、
夏目漱石という「宇宙」を自分の意識で思い描けるということになる。
そこに一つの「正解」があるわけではないから、
小学三年生なら三年生の、米寿を迎えた人なら米寿の鑑賞ができるというのも、俳句のチカラである。
説明されていないもの、言語化されていないものを「掴(つか)もう」「感じよう」とする意思は、
内なる感覚を総動員して臨む能動的な行為となるので、
自分の全体性が引き出されやすくなるだろう。
その過程においては、たとえば、過去の記憶から、現在志向している世界、
さらには、思いもかけない願望までもが「協力しあい」、ある実感を生むことになる。
つまり、その句に自分なりの感覚をもつことになるが、この感覚は、自分自身も知らなかった実像、「ほんとうの自分」であると思われる。
この17字との対峙が、内なる深いところから「自分自身」を引き出してくる意識的なキッカケになることもあるだろう。
限られた文字の背後に限りのないない世界を探ることは、限られていない、知らなかった自分を感じていることでもある。
俳句を鑑賞することは、自分を見つめ直す、自分の再発見することでもあるだろう。
道端に踏まれずに咲く菫かな
風来
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絵手紙
先日から絵手紙を習い始めました。
一枚のハガキの中に
モチーフを収めようとしなくて良いと指導を受け
俳句と同じだなと思いました。
絵を描くのではなく
描かれていない部分を
表現することなのだ、と思いましたが
俳句も絵手紙も奥が深いです。
2018/04/30 19:39:36