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たかが一人、されど一人

身なりは大人 

2018年04月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

妻のように往生際が良すぎるのも考え物かもしれぬが、安倍内閣の閣僚や日銀総裁なんかの往生際の悪さは度が過ぎている。何れ全ては歴史に刻まれることになるが、ご本人たちはそのことをどう考えているのだろうか?尤も安倍内閣なんて歴史に顧みられることもなく、当事者もそんなことは考えてもいないかもしれぬ。歌(仰げば尊しかな)の文句に「身を立て名をあげ・・・」があるが、昔の人たちは「名をあげる」ことを、後世に名を遺すことと考えていたように思う。現世で少々流行りもののごとく扱われても名をあげたことにはならなかったと理解したい。六三制以前の高等教育は旧制高等学校において行われたようだが、現在の高等学校はとても高等教育の名に値しない。大学教育も残念ながら同じだと思う。経験が無いので憶測で書くしかないが、昔の高等教育の核心は大人になるための考え、心構えを注入することにあったのではと思う。16歳で入学した新制高校だが、文化祭のファイヤーストームなんかで歌われる歌のなかに「デカンショ節」は残っていた。これは旧制中学生の旧制高校生への憧れの遺産であろう。要するに卑猥な歌ばかりがなる年頃ではあるが、大人の仲間入りをするために「俺だって少しは哲学を勉強しているぞ。」との強がりである。現代で言うところの高等教育を一応受けて卒業免状は貰っているが、デカルトもカントもショウペンハウエルも何一つ知らない。まして漢文や坊主のお経なんて聞いても眠くなるだけだ。国会議員の座右の銘などをたまにテレビで聴くことがあるが、漢文からの引用を書く者もいるので、小生みたいバカばかりだとは言いたくないが、それにしても字が下手なのが気になる。中学校さえ出ていない角栄先生を見習えである。現代日本はどうしてこうも子供みたい人間が多いのだろう。天に唾を吐いてしまった。

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