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山内一豊(戦国の出世者1) 

2018年03月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



山内一豊

 ☆土佐24万石に登りつめ、その出世の陰には、妻千代の内助の功があった
 ☆品川区には、その子孫山内豊信の墓がある
 ☆一豊は、NHK大河ドラマの「巧名が辻」放映された
 ☆織田、豊臣、徳川に仕えた一豊

山内一豊の誕生
 ☆尾張国守護代・織田伊勢守家家老の第4子として生まれた
 ☆一豊の誕生地は、岩倉城、黒田城(同一宮市)とも伝えられている
 (一豊の誕生石碑は一宮市と岩倉市の2ヵ所にある)
 ☆父 盛豊は尾張統一をめざした織田信長に討たれる
山内一豊三段崎勘右衛門との死闘
 ☆信長に仕え、羽柴秀吉に槍の使い手として認められる
 ☆秀吉のの配下として参戦した越前一乗谷の合戦では、朝倉軍を追撃
 (朝倉方の武将三段崎勘右衛門を討ち収った)
 ☆この手柄で初めての領地、近江(滋賀県)唐国400石を手に人れる
千代の内助の功で名馬を買った
 ☆馬揃え(観兵式)で、信長は一豊の駿馬に目を止めた
 (「あっばれの馬なり、これは東国一の名馬なり、何者の馬ぞ」と述べた)
 ☆信長に仕えはじめた頃、一豊は貧乏で、気に入った馬が買えなかった
 ☆一豊は、名馬が買えず、悔やんでい時、夫人が金10両を差し出した
 (夫の一大事に使うよう、嫁ぐ時に持たされたと話す)
 (手に入れた馬を信長に誉められ、 一豊は面目を施した)
 ☆信長は、戦時に備えて名馬を求める武士としての心構えを大いに讃えた
 ☆これを機に一豊は次第に出世した
信長の死後
 ☆豊臣秀吉から、秀吉の旧領・近江(滋賀県)長浜の5千石が与えられる
 ☆一度若狭高浜に移るが、再度長浜へ戻り2万石の城主となる
 ☆その後、遠江(静岡県)掛川6万石の城主となり、一豊は順調に出世していった
笠の緒の密書と小山軍議
 ☆豊臣政権の崩壊後は、豊臣方につくか徳川方につくか、厳しい選択を迫られる
 ☆一豊は、関ヶ原の戦い直前に掛川城を徳川家康に譲り、他の大名が東軍に付くきっかけを作った
 ☆石田三成が挙兵した時、千代が機転をきかせた「笠の緒の密書」を届けた
 ☆大坂の屋敷にいた千代は、情勢を出征先の一豊宛て文箱を笠の緒に仕立てした
 (未開封のまま文箱が家康の元へ届くよう工夫した)
 ☆一豊は、家康に敵方の情勢を伝える功を立てた
 (未開封の文箱を差し出すことで家康への忠誠を示すことに成功した)
 ☆三成挙兵の情報を受けて開かれた小山軍議の場で、 一豊は三成の打倒を進言する
 ☆掛川城を家康へ明け渡し、あわせて人質を差し出すことを申し出る
 ☆一豊の発言に続き、他の諸大名も同様の忠誠を誓った
 ☆一豊の行動は、大坂に妻子を残す諸大名の迷いを捨てさせ、勢が西へ進む道筋を開いた
 ☆家康の信頼を得た一豊は関ヶ原の戦後、土佐24万石の藩主まで上りつめた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『戦国と幕末(ハーツ&マイズ)』






山内一豊(戦国の出世者1)(『戦国と幕末』記事より画像引用)

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