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平成の虚無僧一路の日記

「無孔尺八」と「無絃琴」 

2011年04月26日 外部ブログ記事
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広島から来られたS君。若いのに、なかなかの理論家だ。
「海童道(わだつみどう)」に傾倒している。
「誰のために、尺八を吹くのか。人に聞かせる意味は
あるのか」というような話になった。

「海童道宗祖」は、昭和40年頃、レコードが出され、
NHK FM「現代の日本音楽」などで流れ、一躍有名に
なった。しかし、その名が知られるようになってからは、
全く人前に姿を現すことはなかった。

40年ほど前。私が在学中、「学生三曲連盟」が主催して、
尺八家5人の演奏会が企画された。「青木静夫(鈴慕)、
山本邦山、横山勝也、荒木古童、そして海童道」の5人。

前売りチケットは完売し、満席となった。だが「海童道宗祖」は
現れなかった。「海童道宗祖」は、「幻の人」として伝説的に
語られる人となった。彼が吹く尺八は もう尺八ではない。
「法竹(ほっちく)」だ。竹林から伐ってきたばかりの青い
「孟宗竹」。手孔もない「無孔尺八」でも、自由自在に 音を
発した。その「道曲」は、もう「音楽」などという範疇を
超えていた。宇宙の波動だ。


「正倉院」御物の「金銀平文琴」は、「無絃琴」と言われる。
絃を掛けて演奏された痕跡が無いのだそうだ。

晋代の詩人陶淵明は「ただ琴中の趣を得ば、いかでか弦上の音を
わずらわすべき」といって、無絃の琴を撫していた。

「金銀平文琴」は、表面に描かれた川の流れの図から「流水曲」が
聴こえてくるようだ。絃を張って「わずらわすべき」ことはない。
絃を張らず、音の出ない楽器から 音を聴く。まさに「禅問答」的だ。

「無絃の琴」は音楽を超える。「余韻の音楽」「静寂の音楽」は
琴の本質である。曲が終った後にこそ聴くべき音があり、静寂は
琴韻によってますます深まる。

「海童道」の前衛哲理にも通じるものだ。

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