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聖徳記念繪畫館壁畫集から「日韓合邦」を批判する 〜明治150年を考える〜 

2018年02月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「新宿平和マップで歩く明治150年」のアンケート「その二」
の中で『それにしても聖徳記念絵画館の「日韓合邦」の内容にはショックをうけました。朝鮮半島の人が泣いて悲しんだ日韓併合の日を、今だ喜びの日とするのは外交問題になるでしょう。100年以上たっても反省しない日本の指導者は失格でしょう。』と書かれている。


古書店で購入した「聖徳記念繪畫館壁畫集」とその「壁畫解説」を画像でアップしたい。








大正11年発行の文部省検定中学校第5学年用「新體日本歴史」も画像でアップする。
管理人が傍線したが、この文言こそが吉田松陰が主張し、松下村塾生だった明治政府要人の対外膨張主義の本音であろう。
「天智天皇の御代に一旦我が國の支配を離れた朝鮮半島も再び我が大君の御稜威に順ひ奉るやうになった。」











書棚にある「世界史辞典」・「日本史事典」・「日本陸海軍事典」から抜粋したい。
この歴史認識によって「村山談話」があり、「河野談話」となっているのである。

「世界史辞典」2001年・角川書店刊

>韓国併合<
1910年8月29日に朝鮮が日本の植民地にされたこと。日本による朝鮮の植民地化の過程は,04年2月,日露戦争開戦とともに日本軍が大韓帝国(韓国)を軍事的に制圧したのに始まる。その後,日本は日露戦争中からの顧問政治,05年11月の第2次日韓協約による韓国の保護国化(外交権の剥奪と統監府の設置),07年7月の第3次日韓協約による次官政治(次官以下への日本人官吏の採用)と,支配を強化していった。しかし義兵闘争の高揚は植民地化政策に大きな打撃を与えた。朝鮮支配を確立するため,日本政府は09年7月適当な時期に朝鮮を併合する方針を決定し,列強より併合に対する承認を取りつけたのち,10年6月併合実行の方針を決定した。8月22日,日本軍の厳戒するなかで併合条約が調印され1週間後に併合が実施された。韓国は朝鮮と改められ朝鮮総督府が設置された。多くの朝鮮人は強く抗議したが,日本では反対の動きはほとんどなかつた。

>韓国併合条約<
1910年8月,日本が朝鮮を完全植民地化するために結んだ条約。大韓帝国皇帝による統治権譲与の申し入れを天皇が受諾するという「合意」を装った形式で,朝鮮は日本の領土に編入され45年8月まで植民地支配下に置かれた。

「日本史事典」2000年・旺文社刊
>韓国併合<
1910(明治43)年8月22Ij調印の韓国併合条約により,韓国を日本の領土としたこと。朝鮮と改称。日露戦争末期の桂−タフト協定,第2次日英同盟,ポーツマス条約によりアメリカ・イギリス・ロシアに韓国支配を認めさせた日本は,1905年11月韓国保護条約(第2次日韓協約)で韓国の外交権を奪った。さらにハーグ密使事件を契機とし,07年第3次日韓協約で内政権を奪い,抗日武装蜂起「義兵」を弾圧しつつ(義兵運動),10年8月韓国併合を完成。朝鮮総督府を置き,陸軍大将寺内正毅が初代総督となった。
>韓国保護条約<
1905(明治38)年に調印された第2次日韓協約のこと。これによって日本は韓国の外交権を接収して保護国とし,漢城(現ソウル)に韓国統監府を設置した。

「日本陸海軍事典」1997年・新人物往来社刊から『万宝山事件』も引用する。
1931年(昭和6)7月、長春北方30キロの万宝山付近において日本官憲保護下の朝鮮人農民と中国人入植者の間に起こった開墾地及び水路構築をめぐる衝突事件。この直後に起こった「中村大尉殺害事件」も加わり、「満蒙権益の危機」を訴える対中国強硬論に拍車をかけた。関東軍は、これを契機に武力発動を中央部に具申したが、時期尚早として受け入れられなかった。
しかし、満州における既得権益の危機を日本国民に大きく印象付けた事件であった。事件の原因は、この年の4月、中国人?永徳が中国人地主から借り受けた土地を朝鮮人入植者に転借したことにあった。すなわち、土地を借り受けた朝鮮人入植者の開墾・用水路工事が、現地中国人農民との利害と衝突したのである。更に本事件は、7月1〜2日に日中官憲を巻き込んだ武力衝突に発展・拡大した。更に、『朝鮮日報』長春支局記者・金利三が、2日の号外、及び4日に事件を衝撃的・扇動的に虚偽の報道(中国官民の不法行為により朝鮮農民が死傷した・・・)をしたことにより、仁川を皮切りに京城・平壌さらに朝鮮全土に反中国大暴動事件が発生し、9日までに109人の死者と多くの負傷者を出した。その反動として中国各地では対日ボイコット運動が激化し、この反日運動の高揚が、在満日本人、特に関東軍に危機感を抱かせ、満州問題の武力解決へ一歩踏み出させる要因となったことは否定できない。

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