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「上海天長節事件」尹奉吉暗葬の地・金沢 

2018年01月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



母方三宅家の菩提寺は、金沢市野田山にある東香山大乘寺である。墓地に入る市道の先に石川県戦没者墓苑と加賀藩主前田家墓地がある。前田家墓地を見学したことがあったが、偶然尹奉吉の大きな祈念碑(尹奉吉義士殉国祈念碑)を見つけた。

上海新公園(虹口公園)で爆弾を投げた尹奉吉は直ぐに逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑の判決を受け、日本に移送されると大阪陸軍衛戍刑務所に収監された。金沢に移送され、直ちに第九師団三小牛作業所で銃殺されたが、遺体は野田山陸軍墓地と一般墓地との通路に「暗葬」された。
何故に「暗葬」されたのか。
その疑問を解いてくれたのは、2011年Amazonで買い求めた>「尹奉吉 暗葬の地・金沢から」山口隆著・社会評論社刊<である。

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 以上のことを総合すると、九師団は軍中央の命令で銃殺刑を執行したにすぎないこと、そして、臨時政府の影に怯え、遺骨を奪いにくる可能性を強く認識していたことを読み取れる。この影に怯えたために尹奉吉は「暗葬」されたことになるが、この「暗葬」も軍中央の命令によるものなのか、あるいは九師団独自の判断によるものなのかの、決め手となる証拠はないが、先の、軍中央が処刑地を金沢に決めたのは、マスコミ対策と同時に遺体を隠すことまで考えて金沢に決めたのではないかという推測と合わせて、「尹奉吉の遺骨が臨時政府に奪われ、朝鮮に持ち帰られたら大変なことになる」という朝鮮の独立運動を意識した政治的判断は、やはり軍中央のものであり、その命令に基づいて、九師団は地元として具体的な方法を考え「暗葬」を実行したものと考える。九師団の特高や警察までも巻き込んだ過剰とも思える警備体制は、もちろん「遺骨を奪われない」ためではあるが、視線は多分に軍中央の方に向いていたのではないだろうか。
【注】「臨時政府」とは「大韓国民国臨時政府」のことで、上海にあったが重慶に移った。
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著者は『 日本人として、過去の反省に立脚した歴史認識と、その「加害性」をふまえた自らの「民族性」と向かいあった上で、他のあらゆる「民族性」を認めあい、ふれあい、楽しみあうことこそが、本当の意味での国際化につながり、そして長い間、日本において不当にもその民族性を奪われ続けている人々=在日韓国・朝鮮人の民族性を保障し、生存を保障し、未来を保障することにつながるのではないだろうか。自然なかたちで、あたりまえのものとして。』と「終章」で述べている。
韓国の文在寅大統領が、「慰安婦問題の日本政府との合意」の見直しを語っていることも「韓国併合という植民地問題の反省と謝罪」を理解できない国民が多数いることに心が痛むものである。
















さて、金沢市議会議員森一敏氏は12月3日金沢市内で開かれた「日韓共同学術会議:尹奉吉義挙世界平和運動・KANAZAWA」でパネリストとして発言している。
尹奉吉問題については、森議員と連携を深めていきたと考えている。

尹奉吉の銃殺刑場所は、陸上自衛隊金沢駐屯地演習場内であると想定されているが、日本と韓国調査団が敷地内に立ち入れないので確定することが出来ない。







管理人が複写請求をした、平成29年12月20日付石川県立図書館から送付された地図を掲載したい。
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「ユン・ボンギルと天長節事件始末///48ページに2千分の1縮尺程度の処刑場とされる周辺地形図」
「1932年上海爆弾事件後の尹奉吉///24〜25ページ、50〜60ページ
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 軍報告文書に添付された三枚の写真を見ると、処刑地周辺の桂生は雑草地(笹薮)である。ところどころに腕ぐらいの太さの潅木が生えているが、まばらであり、林と言えるほどの植生ではない。
 「全景写真」を見ると、尹奉吉や警備の憲兵を見下ろすように写している。カメラよりも低い位置に憲兵や射撃手の位置があり、さらにくぼみ(中尾山川)を越えて尹奉吉が座らされている。尹奉吉の後方(東方)は数メートルの崖となつている。周辺は笹薮のような雑草地である。尹奉吉の南側を東に向かつて上り坂の細い道が写っている。
 一九〇四年、金沢市殿町の小池写真館(小池兵治)は第九師団専属の写真班に任命され、高桑技師を日露戦争に従軍させた(「石川県写真史」)。また、金沢市博労町の今井写真館は「陸軍御用」(一九三七年金沢市職業別電話帳)であり、処刑時の三枚の写真は小池写真館か今井写真館の写真技師が撮影したと考えられる。

 ?一九六二年航空写真について
 一九六二年航空写真を見ると、中尾山川の下流部分(北)は生い繁る林で覆われているが、上流(南)はところどころ灰白色に写っており、背の低い雑草地(笹薮)が広がつている。一九五六年の地図には中尾山川の周辺は広葉樹、針葉樹、雑草地の記号が記されている。

 ?一九五六年地図上の処刑地
 したがって、軍報告文書、写真、要図、地図などを検討すると、一九五六年地図上の中尾山川に沿って、「大桑町」の「桑」の字あたりが処刑地で、一九六二年航空写真では灰白色に写っているところであると推定できる。

 ?二〇〇二年地図上の処刑地
 二〇〇二年地図を見ると、中尾山川と警備道路の交差点と一九五六年地図上の「桑」の字周辺が同じ位置であり、交差点あたりが処刑地と推定できる。

?現地調査
 地図上の検討をもとに、三小牛演習場(西北谷間)を視察すると、「警備道路」は中尾山川に土管を埋設し、土盛りをして作られていた。中尾山川との交差点(暗渠上)から南方(上流)を見ると、「基本射撃場」建設によって、中尾山川源流が埋められてはいるが、基本射撃場と警備道路の間は湿地のようになっており、東西両側にはそれぞれ数メートルの崖が残っている。
 中尾山川と「警備道路」の交差点から北方(下流)を見ると、深い谷になつており、この谷に降りてみると、中尾山川が南から北に向かって流れ、土砂流出防止の土留めが設置されている。土留めの東側は数メートルの崖になっており、西側は緩やかな上り傾斜になつている。

3結論
以上の調査・検討結果を総合すると、尹奉吉は尾根上の道路の東側を流れる中尾山川上流で、二〇〇二年等高線地図に描かれた「警備道路」と中尾山川の交差点あたりで、東側の崖を射?にして処刑されたと推定される。
 SBS調査チームは処刑地を[北緯三六度三一秒東経一三六度四〇分一七秒]と発表しており、処刑地調査チムもほぼ同位置の結論を得たが、あくまでも推定地であり、本格的な再調査によって更に精度を高める必要がある。(「尹奉吉義士処刑地調査チーム報告書(二〇一〇・十二)」より要約)
傍線は管理人

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