メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

八橋検校はグレゴリオ聖歌を聴き得たか? 

2011年04月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



皆川達夫氏の「西洋音楽は、信長の頃、今想像する以上に
日本に広まっていた」という説は、傾聴に値する。

 天文18年(1549年)フランシスコ・デ・ザビエルが渡来し、
キリスト教の布教に 賛美歌が重要な役割を果たしていたことは
否めない。
 2年後の天文20年(1551年)ザビエルは、山口の大内義隆に
謁した折、「楽器」を献上している。

30年後の、天正7年(1579年)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが
来日し、日本各地にセミナリョやコレジョを設立して、神学教育と
音楽指導に力を入れた。少年たちは 毎日1時間の音楽訓練(声楽と
器楽ともに)を受け、「オルガンで歌うこと、クラヴォ(鍵盤楽器)を
弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があった。

 天正9年(1581年)織田信長は 日本人少年たちが演奏する
クラヴォやヴィオラ(弦楽器)を聞き、おおいに満足したという。
 
 翌天正10年(1582年)ヨーロッパに向けて 4人の「天正遣欧
使節」が派遣され、彼らはヨーロッパ各地を訪問し、臆することなく
自らの演奏を披露した。ポルトガルのエーヴォラ大聖堂では、巨大な
パイプ・オルガンを見事に弾きあげた。

 天正18年(1590年)帰国した少年使節一行は、聚楽第で 関白
秀吉に謁し、持参したリウト(リュート)、アルパ(ハープ)、
ラベイカ(レベック、高音ヴァイオリン)、クラヴォを合奏しつつ
歌っている。秀吉はひたすらに聞き入り、三度ほど くり返さしめ、
のち、一つひとつの楽器を手にとって 色々と尋ねた。

 やがて日本でも 洋楽器の製作が始まる。慶長6年(1601年)には
「(竹管を備えた)オルガンや、種々の楽器が製作されたが、
それらは日本の諸聖堂における聖祭で大いに利用された。
宣教師ルイス・フロイスは「日本人はヨーロッパの諸楽器を上手に
弾く」と報告している」云々。

というわけで、皆川氏は「日本人は、天平の昔、中国(唐)の音楽を
取り入れたと同様に、天正年間、西洋の音楽は、日本国内に、今
思う以上に広がっていた」と説く。

ところが、江戸幕府は、1613年からキリシタン弾圧に踏み切り、
多くの伴天連やキリシタンを処刑し、追放した。

八橋検校が生まれたのは、高山右近らが死刑された翌年の1614年である。
生まれは、岩城(福島県の平)とされる。盲人であったため、琵琶や
三味線を生業とし、20代の頃は摂津(神戸)に居た。その後、江戸に
下り、筑紫善導寺の僧・法水に師事して「筑紫箏」を学んだとされる。

「八橋は筑紫の善導寺で筑紫箏を学んだ」という説もあるが、八橋が
筑紫に行ったという史料は無い。また、グレゴリオ聖歌を耳にする
ことができたか?。キリシタン禁制の世である。可能性は低いと
言わざるをえない。

そもそも「八橋が『六段』を作曲した」という説は、田辺尚雄氏に
よれば、「江戸時代にはなく、明治以後言われるようになった」
とのこと。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ