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除夜の鐘を鳴らすな、煩いんじゃ 

2018年01月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


まずはこの記事を読んでください。 大晦日の伝統的な行事の一つ「除夜の鐘」。ゴーンと鳴り響く鐘の音を聞くと、「今年も終わったなあ」と感じる人も少なくないだろう。ところが近年、近隣住民の苦情から、「除夜の鐘」を中止せざるをえなくなった寺もある。東京都小金井市の曹洞宗「千手院」は、近隣住民への配慮で、2014年から「除夜の鐘」を自粛している。住職の足利正尊さんによると、老朽化した寺と保育園の建替えの際、鐘の配置が変わったことが背景にあるという。「除夜の鐘」は、大晦日から元旦にかけての夜間におこなうため、閑静な住宅街では、住民の中に不快に感じる人もいるだろう。だが、そうは言っても、昔ながらの伝統的行事だ。はたして、「除夜の鐘」の問題をどう解決すればいいのだろうか。騒音問題にくわしい山之内桂弁護士に聞いた。●法的解決の論理と限界「伝統文化と人権の衝突に対する法的解決の論理と限界を考えるうえで、興味深い事案です」山之内弁護士はこう切り出した。どう考えればいいのだろうか。「法的に分析すると、除夜の鐘をつく寺(A寺)は、それを止めてほしい人(Bさん)以外のその他大勢の『公共の利益』の立場です。一方、Bさんは、その他大勢に対する『少数者』、音響に対する耐性が顕著に低い『弱者・障碍者』、静かな場所に避難する余裕がない『貧困者』の立場にあるといえます。このような場面で、Bさんに対して、『伝統文化を尊重しろ』『苦情を言うのはあなただけ』『わずかの間だからよそに行って』など、多数者・強者・健康者・富者の要求を強いることは、人権尊重の原則に反します。法的に、A寺とBさんの権利調整をはかるのは、立法(国会・地方議会)と司法(裁判所)だけです。A寺もBさんも、法令・判例に根拠のない言動で相手を服従させれば、刑事・民事責任を負うべき違法行為を犯す可能性があります」●みんなで知恵をしぼって解決する方法も具体的に、どのような法的手段があるのだろうか。「A寺は、除夜の鐘をつづけるために、騒音規制対象外とする政治活動のほか、Bさんに対する『業務妨害行為の差止請求』や、除夜の鐘をやめる義務がないことの『債務不存在確認』などの法的手段が可能です。一方、Bさんは、除夜の鐘を規制する政治活動のほか、A寺に対する『除夜の鐘の差止請求』『損害賠償請求』などの法的手段が可能です。もっとも、現行法令・裁判例の解釈上、A寺が除夜の鐘をやめるべき法的義務はなく、Bさんに対して損害賠償責任を負う可能性もかなり低いと思います」もう少し穏当に解決する方法はあるのだろうか。「以上は、あくまで現状の法令・裁判例をもとにした法的考察にすぎません。すべての紛争を立法・司法だけで解決すべきと主張したいわけではありません。ある寺院は、昼間に『除夕(じょせき)の鐘』をつくことにしたそうです。解決策として間違っていないと思います。それ以外の選択も当然ありうると思います。そもそも日本には、古来より『和を以て貴しとなす』という精神があります。みんなで知恵を絞って、立法・司法によらない『和』の解決を図る発想があってもいいと思います。最近では、裁判外紛争解決手続(ADR)も充実していますので、そういった手続きの活用もよいでしょう」  結局この先除夜の鐘は今後鳴らすことができなくなると答えは見えていることです 除夜の鐘は元々、周囲に聞かせるために鳴らしていた音、煩いのは当たり前です音が小さすぎるというクレームならわかりますが大きすぎるというクレームは、止めろと言ってる事と同じです この理論は他の祭事にも当てはまってしまいます 祭りのお囃子は煩い太鼓は煩い幼稚園も、学校も・・・いずれ喧嘩祭りで有名なだんじりさえ周囲の住人の一人でもクレームをつければ中止の憂き目をみます 弱者は弱者であると、言葉を公に発した途端不思議なことに強者になれるのです面白いですよね 世の中に完全という言葉はありません法治国家の法律も当然そうです時代の変化に合わせて法律も変えていく必要があります。 今の法律が絶対だと変える事そのものを反対する人達そんな人達が世の中をどんどん悪くしていってると、気付いてほしいんです 変えることは悪ではありません変えないことこそが悪なんです悪ければ、また良い方向に変えればいいのですから 少数派の詭弁は法治国家、特に成熟した国家ではむしろ弊害しか生まないのではないかとふと、思ったのですが 日本はまだ成熟した国家ではないからいいのかなあ・・・・   にほんブログ村

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