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亀居城跡〜桜〜福島正則の悲運の支城〜 

2011年04月17日 外部ブログ記事
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亀居城跡

   完成から廃城まで三年

関が原の戦後、防長二カ国に転封された毛利氏に代わり福島正則が安芸・備後に入りました。

正則は毛利氏の抑えとして慶長八年(1603)から築城を開始。
五年後の慶長十三年(1608)に完成しました。
非常に巨大な堅城でした。

甥の福島正宣が城主となるはずでしたが、前年に亡くなってため
山田小右衛門と森佐助の両名が城代として亀居城に入りました。

しかし三年後の慶長十六年(1611)に、城は破却、廃城となります。

豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まり豊臣恩顧の福島氏への幕府の圧力が強くなり、
正則は徳川氏の意向に従がったのだと思われます。

一国一城令、慶長20年(1615)の4年も前のことでした。

支城としては巨大すぎた城だったので、家康の疑念を招き福島氏の没落の一因となりました。
亀居城図


標高八十八メートルの山上に築かれた平山城で、現在は本丸、二の丸、詰の丸、三の丸、有の丸、
なしの丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸の九つの郭が見られます。

築城当時は松の丸の南西に鐘の丸、南西の独立した丘に妙現丸がありました。

城の面積は十町歩(約10ヘクタール)現在は海から多少離れていますが、
築城当時は海に面し港を備え、山陽道を城内に取り込む構造となっていました。
港を取り込む構えは、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、日本軍が築いた釜山城など倭城と共通してます。
これは自らも倭城を築いた福島正則の経験が生きているのでしょう。


城跡図


説明看板


1977年偶然から土中より石垣が出現。
これをキッカケに市が城址の復元を行ない現在の城址公園となりました。

明治42年に植えられた1,000本の桜はその後、桜の名所として知られるようになり親しまれています。
公園内に大竹市出身の石本美由起氏の作詞家生活40周年を記念して造られた「詩の坂道」があります。

一番下の捨の丸

城の一番北端ですが展望は臨めません。


名古屋丸。

名古屋丸から松の丸を見上げる。

名古屋丸から海方向

松の丸から名古屋丸を見下ろす


有の丸の端から三の丸方面

三の丸

二の丸への石段


二の丸。能舞台


二の丸から見た本丸


本丸石垣


石垣の三分の二以上は修復されたものでしょう。
へこんでいるあたりから上からはっきり違いがわかります。


本丸虎口 コの字プラス一本曲げられています。


本丸


天守台の礎石 15個ありコンクリートで固められています。


天守台上よりの展望 宮島


大竹方面

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