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雑感日記

カワサキ特約店制−1 

2017年10月30日 外部ブログ記事
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?★?衛藤誠さん、昭和36年(1961)新設された単車営業部に私が異動した時すでに衛藤さんはそこに出入りされていた。それ以来、もう60年に近いお付き合いである。まだ二輪車新聞の現役記者をおやりだからカワサキの単車の歴史は衛藤さんが一番詳しいのかも知れない。
 二輪車新聞のネット版を見ていたら、そんな衛藤誠さんがこんな旧いカワサキのことを書いていた。
  http://www.nirin.co.jp/column/
 もうずっと昔の話、昭和46年(1971)のことである。
 私も未だ30代で、近畿地区の母店長で大阪所長を兼務していたころのことである。
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その頃からずっとお付き合いのある衛藤誠さんは、当時のことをこのように書かれている。
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カワサキモータースジャパン(KMJ/寺西猛社長)は現在、新しい全国販売網政策に基づく「カワサキ・プラザネットワーク」づくりに取り組んでいる。思えばカワサキは今から46年前の1971年(昭和46年)、現行の「カワサキ特約店」制度の基盤ともいえる全国販売店の組織化が胎動の気配を見せていた。
これは、これまでの“実用車のカワサキ”から脱皮し、“中・大型スポーツ車”を中心とする販売展開を目指すため、新しい販売方式を模索しての動きであり、特に東京・大阪・名古屋など大都市市場で見られてきた。既にこの前年、70年(昭和45年)には東京で、中・大型機種の販売を指向する販売店約50店による「東京カワサキ会」(正式な名称は違うかも?)が結成された。
これに触発された大阪でも、カワサキオートバイ販売(カワ販=現KMJの前身/田中誠社長)大阪母店(近畿地区を統括)大阪営業所が1月、府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長(大阪母店長も兼任)が“中・大型機種を指向する販売店の組織化”を相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。
この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を示し「この早急な実施を図りたい」との話。そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。
ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の?野豊秋専務から“大目玉”。
?野専務曰く「現在、全国にカワサキ車を販売してくれている販売店は1000店以上ある。この販売店は、何の前触れもなくこの記事がいきなり舞い込んできたら何とする。販売店の今後の経営方針にも大きく影響するばかりか、カワサキの今後の営業活動にも大きく支障が出る」というような主旨のお叱りの言葉を約3時間。私は?野専務のお叱りは“ごもっとも”と思い、大いに反省させられた。
ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。
「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段であり、物事の実現には大きな“追い風”になります。もちろん、これには多くの人たちを納得させる正当性がある限りです」とのこと。全く恐れいりました。
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  私は昭和45年の10月に仙台事務所長から大阪母店長に異動した。初めての第1線営業だった。
 カワサキが50ccを止めて中大型スポーツの世界に転身しようとしていたころで、それまでは一番弱体だった東・名・阪の大都会の市場開拓をスタートさせた時期なのである。
「うるさい」ということで定評のあった大阪の販売店ではあったが、それまでの東北の代理店の社長さん連に比べると、そんなにムツカシイとも思わずに、すぐ仲良くなっていったのである。
 3ヶ月ほどたった1月に船場モータースの岡田博さんなど大阪地区の20店ほどを和歌山の勝浦温泉に招待して、今後の新しい二輪専門の販売網を創ろうとしたのである。
 その構想のコンセプトを当時の二輪車新聞の衛藤さんに書いて頂いたのである。販売店1店1店に説明して回るより新聞にちゃんと書いてもらうほうが説得力もあると思ったからである。当時から衛藤さんの記事は非常に詳細で、的を外さず、非常に解りやすいことで定評があったので、販売店に話すよりは衛藤さんに話すほうが的確に伝わるはずだという私の想いであった。
 確かに、この記事のことで明石の本部から苦情があったのは覚えているのだが、衛藤さんが言われるように苧野専務に呼ばれて怒られたという意識は私は全くもっていない。
 私は仙台に行くときに3年と言う約束みたいなものがあったのだが、それが4年になったし、明石に戻して貰えるかと思ったら、大阪に途中下車で、その人事については仙台時代に直接当時のカワ販社長田中誠さんから、大阪で何をすべきかを直接伺っていたので、当時カワ販本社ですでに答申されていた『特約店制度』をどの地区の営業所長もやらないので、『私がやろう』と思っただけのことで、それを実現すべく『わたしなりのやり方』で進めただけのことなのである。
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?★昨年 『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史をこのブログにもアップしたが、昭和46年(1971)のそれにはこの件に関してもこのように記述しているのである。
 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a17f4f57cab75c640c0a6a6d400066d8
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この年の1月23日に和歌山の勝浦温泉に大阪の今後の有力店候補20店を招いて会合を持ったのである。
この勝浦温泉での会合で、年の取引額1000万円などの『カワサキの新方針』を明言しそのスタートを切ったのだが、船場モータース・西形自動車・イズシン商会・浜寺モータース・吉永オートサービス・野崎輪業など 招待したお店は十分にその可能性のある店ばかりだったのである。
その会合で、お店の方から『カワサキ会を創ろう』という提案が出されたのである。
この実行に当たって、二輪車新聞の衛藤誠さんの取材に応じ、2月5日の二輪車新聞のトップ記事として『カワサキの大阪の新政策』が大々的且つ詳細に報道され、一挙に二輪業界注目の的となったのである。『ムツカシイことにチャレンジ』するときは、自らの退路を断つべく公に発表するのは私の常道であり、それくらいの覚悟でやらない限り世の中で初めての新しいことなどは実現しないのだと思っている。これはカワサキの新政策が二輪業界の注目度も上がることにもなるのだが、その論理に周囲を納得させる正当性がある限り、それは『ものごと実現のための追い風』になることは間違いないのである。
完全に無視されていた『大阪のカワサキ』だったのだが、ホンダの営業会議で『カワサキが話題になった』などの情報が流れるなど順調なスタートを切ったのである。10月に赴任して未だ半年にもならなかったが、『半年あれば物事はある程度実現する』というのは私自身の信念で、常に『半年単位』で物事を考えている。『半年ではできないが、10年経ったらできる』保証などはどこにもなくて、それは殆どが錯覚だと思っている。
このプロジェクトも、このあと伊藤モータースなど新しい店も加わって5月には約25店でカワ販の田中誠社長も出席の下『大阪カワサキ共栄会』の結成総会が開催されるという速いテンポで進んだのである。
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昭和46年度、この1年で大阪のカワサキは様変わりした と言ってもいい。
半年前には『ホンダは別格、世界のヤマハ・日本のスズキ・明石のカワサキ』と言われていた船場モータ?の岡田博さんは、このカワサキ共栄会制度の推進者にとなって自ら会長職を引き受けて、各販売店をリードして頂いたのである。10月には2回目の共栄会総会を開催し、このあとに続く『カワサキ特約店制度の基本構想』を発表し、大阪市場の500店の取引店との取引を中止し、契約した特約店とのみの契約にする方向を内示してさらに進めることにしたのである。
この会議には東京から北多摩モータースの根来さん、城東カワサキの高橋さんも応援に来てくれて、東京の実情なども話してくれたのである。東京の市場規模と比べると大阪では25店の候補に絞る方向とし、共栄会加盟メンバーを優先する方向で進めてゆくことにしたのある。この時点でも二輪車新聞に『カワサキ特約店制度の基本構想』の詳細が報道され、その実現に向けて販売店と共に具体的な検討が続いたのである。
大阪営業所管内では、北地区には西形自動車、南地区では小泉製作所の立地に、10月には素晴らしい『ショールーム』を持つ北営業所、南営業所が開設されるのである。また、カワ販本社も特に田中誠社長が大阪の展開には非常に関心を持たれて、10月には平井稔男さん率いる兵庫営業所も大阪母店管轄とすることを決められて、この新政策は兵庫県も含めての展開となるのである。
★私自身のことで言うと、未だ39歳の若さではあったが、6月に全国カワサキ会の役員人事の改選があり小野寺和夫新会長の下私は副会長として支え、その経営委員長を任命されて全国的な販売網経営戦略についても担当することになったのである。二輪事業10周年を記念して、全国的な『10周年記念セール』を起案し『KMCとアメリカ市場視察計画』をぶち上げたのである。世の中はまだ海外など行く人は殆どいない時代で、これも画期的な催しで、翌年1月早々のアメリカ視察旅行が実現するのである。
全国カワサキ会副会長などと言う肩書を頂いたおかげで、11月9日には東京で開催された本田宗一郎さんが歓迎委員長をされ、高松の宮様などもご出席になり、日本4メーカーのトップ役員が出席されたBPICMの世界の総会に夫婦でご招待を受けたりもして、全く初めての貴重な経験もしたのである。
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こんな想いで多い、昭和46年だったのである。
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