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歴代天皇史(ギブ&テイクの朝廷と秀吉) 

2017年08月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ギブ・アンド・テイクを維持した朝廷と豊臣秀吉

羽柴秀吉は、大坂城を築いて正親町天皇と誠仁親の新たな保護者となった
 ☆信長の死から2年後、秀吉は正親町天皇から従三位権大納言に叙任され公卿となる
 ☆秀吉が朝廷の一員として仲間人した
朝廷・秀吉は両者は、ギブ・アンド・テイクの関係
 ☆秀吉は、正親町天皇にいたく感謝し、正親町天皇のための「院御所」を建る
 ☆誠仁親王への譲位の準備を進めた
 ☆正親町天皇は秀吉の望むがままに官位を与えた
 ☆正親町天皇より、豊臣の姓を賜り、室町幕府に替わる新政権「豊臣政権」を確立させた
 ☆正親町天皇からの譲位を控えていた誠仁親王の訃報で親王の第一皇子が天皇へ
 ☆後陽成天皇は16歳、正親町天皇も健在であり秀吉の愧儡だった
天皇の影響力(権力)は、秀吉時代は存在していた
 ☆関ヶ原での本戦以外に多くの場所で展開され、後陽成天皇も影響を及ぼした
 ☆後陽成天皇は、勅使を派遣し和睦させ幽斎らを助けた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』(綺麗な絵画が記載されています)






ギブ・アンド・テイクの朝廷と秀吉(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

天下統一後秀吉は大陸制覇のために朝鮮半島への出兵
「唐入り」「朝鮮出兵」と呼ばれる外征である
秀吉がしたためた「二十五箇条の覚書」
 ☆秀吉は明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京へ
 ☆政仁親王か八条宮智仁親王を日本の天皇へ
後陽成天皇は「無体な所業」と秀吉に反対の意を述べたが、秀吉は聞き入れなかった
朝鮮出兵は、秀吉自身の死によって頓挫する

秀吉の朝廷の後継者問題への介入
後陽成天皇は、秀吉の存命中は従わぎるを得なかった
後陽成天皇、秀吉の死後に良仁親王を出家させ、第三皇子・政仁親王(後水尾天皇)を立てた
 ☆秀吉の影響力を排除しようとしたため。

天皇の影響力(権力)は、秀吉時代は存在していた
秀吉の死から2年後「関ヶ原の戦い」
細川忠興の拠点丹後田辺城は、忠興の出陣後父の細川幽斎と弟の兵が立て籠もるの
田辺城へ敵軍が押し寄せ、落城の危機を迎える
細川幽斎は歌道・茶道に通じ文化人として知られていた
後陽成天皇の弟、が幽斎の弟子で兄に幽斎の救済を願い出た
天皇は、勅使を両軍に派遣し、両軍を和睦させ、幽斎らは助命された
権威が衰えたとはいえ、天皇の影響は、弱でなかったことを窺わせる

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