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創立150年周年「殉国」と「平和」の間に揺れる靖国神社 

2017年08月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



8月15日だけ「改憲」派の決起集会場となった喧噪の靖国神社境内も、そぼ降る雨の中、何時ものように静けさを取り戻しているのであろう。
夏休みが終われば、白百合学園に登下校する生徒たちの賑やかな笑い声が聞こえてくる。


著者である赤澤史朗先生から頂いた『靖国神社「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』を読みながら「靖国神社創立150年記念事業」サイトを見ていると、靖国神社は「殉国」と「平和」をめぐって揺れ動いているように見えてくるのである。
それはこの記念事業を総括する宮司が、神社創建の骨幹を見直す発言をしていたからである。
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「徳川宮司の発言の波紋」

  徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。

〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉
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明治時代には競馬場となった境内外苑は、「ランドスケープアーキテクト、つまり外部空間・環境(ランドスケープ)と人間との関係を構築(アーキテクト)するプロジェクト」としての遊歩道が整備された公園になる。
何時も軍服コスプレの連中が、ハーモニカ伴奏で軍歌を唄い騒ぐ茶店(外苑休憩所)のベンチもキッと整備されるであろう。
著名人では作曲家の小室哲哉氏しか挙式をしていない結婚式場も利用者を増やしたいので「戦争神社」のイメージを払拭して「普通」の神社にしなければならないと、或る神社関係者から聞いたことがある。
靖国神社の「財政問題」としての象徴的空間が「招魂齋庭跡」の月極め駐車場(現在は一般参拝者用の駐車場)である。




赤澤先生の著書から「おわりに」の一部を転載させていただくことにする。

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(略)
 一般的にいえば戦没者を平和のための犠牲者として追悼することは、その戦没者を国
家のための死として「殉国」の観点から追悼することとは、両立し難いはずである。し
かし戦争犠牲者といっても、もし日本人の戦争犠牲者のみに注目し、「殉国」の死を専
ら国家の犠牲となることを強要された悲劇として理解するならば、こうした平和主義と
「殉国」のシンボルは共存できるものであった。そこにはけつして「殉国」の讃美では
ない、傷ましい戦争の犠牲者という発想があるからであり、「殉国」の平和主義的解釈
ともいえる。戦後日本の中でかなり長い間続いた「殉国」と「平和」のシンボルの共存
は、こうした条件の下で成立したのである。
 戦後日本社会における「殉国」と「平和」の二つのシンボルの、結合から分離に至る
過程は、戦争犠牲者に対する視圏の拡大に照応していたと思う。時代が下るとともに、
自分の直接に知っている日本人戦没者の想い出が薄らいでいった反面、直接には知らな
かった日本人以外の、さまざまな戦争犠牲者が発見されていったからである。その中で
「平和」のシンボルは、大きな流れとしては、日本の国家と関連する「殉国」から離れ、
戦争犠牲が生じた責任を追及する反戦論的なそれと結びついていく傾向にあった。
 このような変化はおそらく、戦後日本の人権意識の発展と照応したものであった。人
権意識の発展の中で、戦争によって生じた犠牲は、余儀なく引き受けざるをえない運命
的な被害から、国家が侵した不法な人権侵害へと変化していくからである。そうした中
で戦後の平和主義は、その内包する国家責任論を発展させて、戦争の犠牲に関して国家
に対してその補償を要求する思想や運動とも結びつくようになってくる。そして補償要
求は、当初は日本人を被害者とする原爆投下の責任などを追及するものから、次第に海
外の戦争犠牲者からの日本の国家の責任を追及し、さらに日本の国民の責任を追及する
ものへと転換していくのだった。その中で、もともと戦争の犠牲の意味を問い続ける戦
後日本の平和主義的な追悼の流れは、海外からの責任追及の声を受け止めながら、戦争
責任問題にも平和の追求にも唆味な姿勢の、日本の国家に背を向けつつ、戦没者の死の
意味を改めて問い直すのである。
 しかし他方で、「戦後体制」の克服をめざす国家主義的な動きも台頭してくる。「東京
裁判史観」の克服論はその代表的なイデオロギーであり、戦争体験世代の高齢化・少数
勢力化と、インターネットの普及による若い世代の中での右翼的勢力の台頭を機に、憲
法=平和主義を排撃し「普通の国」になることをめざす流れを生み出していく。それは
全国戦没者追悼式典において、「殉国」と「平和」の両シンボルを一致させて戦没者の
死の意味を位置づけようとする政府の立場をも攻撃するものであった。
 戦後の靖国神社の中に、平和主義が存在したのも事実であるし、その方向を深化させ
る、現状とは異なる可能性がなかったわけではない。国家の枠を越えて戦没者などの
「慰霊」を追及しょうとする鎮霊社の創建には、靖国神社の平和主義を深化させようと
する意図が感じられる。しかし靖国神社のたどった戦後の過程は、こうした「殉国」と
「平和」をめぐるその結合から分離への、全体の位置関係に深く規定されていたといえ
よう。そして靖国神社において、「平和」から切り離された「殉国」のシンボルは、国
家への献身を讃美する本来の意味へと回帰することになっていくのであった。
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