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歴代天皇史(摂関政治) 

2017年08月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



藤原北家が天皇の外戚として摂政や関白といった要職を占めた

摂関政治は、藤原良房から基経へと受け継がれた
藤原家の台頭を抑えたかった宇多天皇
 ☆藤原氏の摂政関白を置かずに天皇親政を行った(藤原時平と菅原道真を重用) |
 ☆阿衡事件(基経は宇多天皇の詔勅に激怒し、菅原道真が基経の怒りを鎮めた)
 ☆寛平御遺訓(宇多帝が幼い醍醐天皇に位を譲る際に与えた教訓l巻)
 ☆真言宗の阿闍梨(宇多上皇は真言宗の阿聞梨となり、真言宗と朝廷との関係を強化)
 ☆寛平の治(天皇が、菅原道真らを抜擢して行った天皇親政)
 ☆昌泰の変(醍醐天皇が菅原道真を九州の大宰府に左遷した)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています




摂関政治(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

不仲の陽成天皇を譲位させ光孝天皇を立てた基経
藤原良房の跡を継いで、政治の実権を握ったのは藤原基経
清和天皇の第一皇子が9歳で陽成天皇として即位すると、摂政となり政治を行った
陽成天皇は暴力的な奇行が目立ち、周囲の人々はその行動に翻弄されたとされる
天皇は病気を理由に譲位を仄めかす
基経は人選を進め、安親王を光孝天皇として擁立した

光孝天皇は、政治に関心がない
光孝の母と基経の母は姉妹で、光孝は基経にとって都合の良い点が多かった
天皇は基経を関白に任じ、政治を一任する
基経は、光孝天皇の皇子の源定省を親王とし、立太子にさせた
光孝天皇の崩御とともに、親王は宇多天皇として即位

宇多天皇は、基経に関白としての役割を果たすよう勅書を送った
基経は、勅書の一文に激怒し、政務を拒んで自邸に引き籠もる
菅原道真で、基経をいさめる意見書を提出し、基経も折れる
4年後基経は世を去り、長男時平が跡を継ぐ
宇多天皇は道真を重用して天皇親政を行った
道真は権大納言にまで昇進し、遣唐使の廃止など様々な政治改革を行う
道真の長女・行子を宇多天皇の女御等皇族との姻戚関係も深めた

宇多天皇は息子・醍醐に譲位
「菅原道真と藤原時平の助言を得て政治を執るように」と訓戒する
醍醐天皇は、道真を重用し道真と時平は肩を並べる
藤原時平はそれおを許さず
 ☆「道真が、娘婿の斉世親王(醍醐の弟)を即位させようとしている」と時平は醍醐天皇に訴える
 ☆醍醐天皇は、道真を九州の太宰府に左遷する
二年後、道真が憤死する
 ☆京都では天変地異が始まり、時平も39歳の若さで亡くなる
人々は道真の祟りと恐れ、鎮魂のため北野天満宮、太宰府天満宮を設けた

藤原家の台頭を抑えたかった宇多天皇
 ☆藤原氏の摂政関白を置かずに天皇親政を行った(藤原時平と並んで菅原道真を重用) |
阿衡事件
 ☆天皇が基経を関白に任じた詔勅にある「阿衡」という表現
 ☆基経は「地位は高いが職務を持たない」意味とし激怒
 ☆菅原道真が、基経に意見書を送り、筋の通った主張に基経も怒りを収めた
寛平御遺訓
 ☆宇多帝が幼い醍醐天皇に位を譲る際に与えた教訓l巻を指す
 ☆天皇としてのふるまい、学問、任官叙位、朝廷の儀式等の注意を記す
真言宗の阿闍梨
 ☆宇多上皇は真言宗の阿聞梨となり、弟子になった僧侶は宇多の推挙で朝廷の法会に参加
 ☆真言宗と朝廷との関係を強化し、宇多の朝廷への影響力を回復させて、醍醐天皇を支えた
寛平の治
 ☆天皇が、菅原道真らを抜擢して行った天皇親政は「寛平の治」と呼ばれている
 ☆遣唐使廃止や諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始
昌泰の変
 ☆醍醐天皇が菅原道真を九州の大宰府に左遷した

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