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のびたの日記

うたごえで泣いた泣かせた曲がある 

2017年06月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



人には この歌を聴くと誰かを思い出す歌への思い入れがある 
辛かった時代に励まされた歌があり ともに青春を歌った時もある 
あの頃 あのとき・・・この歌を歌うと胸に迫り 涙が滲むこともある
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今年 白内障 緑内障の治療で 2カ月に一度定期検診を受けて 点眼薬を貰う
私の眼を見て これは ドライアイ だな と即座に言われた
ドライアイは 私には無縁のもので 良く 女性が言うので まさか自分がと思った
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それでも 涙は幾らでも出る ドラマでも歌でも 感動すると 涙がすぐ出てくる
一昨日の 下町のうたごえ でも皆さんにそんな話をした
私には この曲だけは リクエスト貰うと 涙が滲んで楽譜が見づらい時がある
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それは 真白き富士の根 だ 両親も兄も熱心なクリスチャンであり この歌は葬儀の時に歌う
もともと讃美歌であった曲に 七里ガ浜の若い学生 ボート部の遭難で地元の女教師が作詞した
何度 この歌を歌っただろうか 教会で 母 父 長姉 弟 通夜 告別式 納骨に歌う ひとり3回である
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一番身近で楽しんできた弟の時と 一昨年の妹の時は 私は号泣してしまった
そして 今年3月 すぐ上の姉だった 日常はあまり交流していなかったから 妹の時よりは辛くない
それでも最期に兄弟だから 火葬に向かう前 私はハーモニカで演奏して 姉を見送った
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妹の時は 年中訪問したり 得意のカラオケ大会も聴き 応援したものである
この曲を その後リクエストされると どうしても思い入れが強く 涙を抑えるのに苦労した
岸壁の母 妹が得意の歌であるが これだけはリクエストに入れてある これは歌っている姿を思い出すのである
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りんごの歌 をリクエストされた その女性の母が良く歌っていたそうである
この曲は終戦後すぐに 荒廃した日本の惨禍の中で 唯一 明るい歌声が響き 日本中に広まった
歌っていたのは 並木路子 さんである 彼女はこの歌を歌うように求められたが 最初は頑迷に拒否したと言う
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何故なら 彼女の肉親も戦争で失くし こんな明るい歌はどうしても歌えないと泣いたと言う
それでもディレクターは必死に説得して あなたが歌わなくてどうする? みんなの心の灯になるように勧めた
戦争を挟んで 生き残っているだけでも大変だった それでも私たちの両親は懸命に子どもたちを育て上げた
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うたごえが終わったら リクエストした彼女がお礼を言った
母のことを思い出して 泣いていたので 全然歌えなかったのよと私に微笑んでいう
歌は世につれ 世は歌につれ 私たちの人生の中に 幾つもの歌を刻みこんできた
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始まりは 我は海の子 を選曲した 今のシーズン 介護施設でも 皆さんが歌える
この歌は明治の末期 子どもたちに多くの歌を教えるために 公募した曲である
文部省で採用した曲は 殆ど作詞も作曲者も不明だった 著作権も無い時代である
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平成元年 10歳まで鹿児島に育ちその後 北海道に渡った 宮原晃一郎であることが判明した
多分 錦江湾の情景を謳い上げていたのだろう 現在は鹿児島の桜島を望む 祇園の洲公園に歌碑が立つ
文部省唱歌 数多くあるが 未だに作者が誰か分からないものも多い 時代の背景である
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   最後までお読みくだ-さいまして有難うございました m(_ _)m
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