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雑感日記

大西畔さん と 山田熙明さん  

2017年05月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★このところ、ずっと『カワサキの二輪事業と私』と題した 自分史を田崎雅元さんが手伝ってくれている。
昨日は写真をいっぱい送ってくれたのである。?
そんな中に写っている 大西畔さん、山田熙明さんは、お二人とも当時の川重の副社長で、私や田崎さんはなりたての新米部長で、職位だけでで言うと、直接話をすることすら普通ではないのだが、この時代は『KMCの大赤字対策』が即『川崎重工業の最大の経営対策課題』であったことから、私も田崎さんも副社長直接にいろいろと対策案などのお話が出来たりしたのである。
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アメリカのKMCで、新社屋の土地を見たり、そのあと大西さんをリンカ―ンまでご案内したことはよく覚えているのだが、それがいつのことだったか、どんな経緯だったのかは全然覚えていないので、人間の記憶などは頼りないものである。
当時の日記をひっくり返して調べてみると、84年の10月8日に、田崎さんが日本に来てKMCの事務所の件など検討していて、翌日川重本社に大西副社長を訪ねてこの件のご説明などして、社長・副社長の承認をとっていて、翌週17日に大西副社長がアメリカ出張されるのに合して、田崎さんと私がアメリカまで同じ飛行機でお伴して、そのあと私はリンカーまでご一緒しているのである。
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これはアメリカ市場視察でKMCの新社屋用地をご覧になった時の写真である。
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大西畔さん はずっと本社財務育ちで、私は1979年に『カワ販再建』のためにカワ販常務になるまでは、お目に掛ったこともなかったのである。
『ハーレーダンピング訴訟』対策を担当していた田崎さんが、その対策として『国内の販社の構造対策の必要性』を提言したのだが、その具体的な対応策の立案がなかなか、ムツカシクて最後に私にお鉢が回ってきて、その対応案は『私が創った』のだが、まさか自分がやるとは、全然思ってもいなかったのである。それまでのカワ販を統率しておられたのは、元川崎航空機の取締役をされていた田中誠社長だったのである。
そんなグループの長を、まさか課長の私がやるなどは、『考えられなかった』のは当たり前のことなのだが、その指名を?橋鐵郎さんに直接されたのが、大西副社長で、川重副社長のご指名だったので、私のカワ販常務が実現したのだと思う。
ただカワ販再建問題も大問題だったので、その後は毎月大西副社長にカワ販の状況報告をしていたので、79年1月以降は毎月お会いしていて、非常にラッキーだったには、FX400が出てバカ売れしたので、カワ販の損益は黒字どころか、かっての累損も消去できて、そんなことで『信頼』が得られていったことは間違いないのである。
販売会社にも非常に興味を持たれて、何度もカワ販の会合に出席いただいたりしていたのである。
サンタナでも、翌日のロスの銀行挨拶周りでも、夜もご一緒したのだが、田崎さんは『社長』と呼ばれ、大西さんは『副社長』と呼ばれるものだから、『やはり副社長よりは社長のほうがいいな』などと、仰っていたのである。
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これもその時の写真だろうと思うが、ヨコにおられるのは田崎夫人なのである。
この出張は、大西副社長とご一緒だったので、South Coast Plaza や、ロスでは『ホテル日航』など一流ホテルに泊めて頂い    たのである。
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?★こちらは山田熙明さんで、至極くつろいでおられるが、KMCの運動会の会場だそうである。
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山田さんとは レース創世期には、単車の技術部長だったので、ライダー契約やレース現場でもご一緒したりしたので、当時の田崎さんや私には、何か『仲間意識』のようなものをお持ちなのだろう。
この写真の当時は、川崎重工業副社長で、『単車事業再建対策委員長』という厳しい要職にあったのだが、田崎さんとこの運動会での山田さんのこの表情からは、ホッとされているところがみえて、ほんとに山田さんらしさが出てるなと思っている。
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山田さんには、特に私は神戸一中の後輩だということで、特別に目をかけて頂いたように思う。旧い神戸一中の先輩たちの意識の中には何か『男女共学になってからの神戸高校』は『神戸一中ではない』という不思議な感覚をお持ちのようなのである。
確かに、かっての神戸一中は『昼飯は校庭で立ったまま食う』というようなところがあって、男女共学になってからは、『立食』の風習は残っていたが、流石に運動場で食う立食風習は無くなっているのである。
昔の男女共学ではない神戸一中だけが、ご自身たちの母校だと思っておられる節があって、『お前は旧制の神戸一中か』と言って、面倒を見て頂いたのである。ちなみに私は旧制中学の最後の学年なのである。
確かに、中村冶道さんという明石高校の先輩もいたのだが、かって女学校だった明南高校が甲子園に出た年に『女学校が出てるのに明高は何をしとるのか』と明石高校野球部OBの私に文句を言われたりしたのだが、同じような感覚かも知れない。
中村治道さんは、あのカワサキの青野ヶ原のモトクロスの旗を振られた 熱血漢である。
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 田崎さん、こんな写真も送ってくれている。
これは、その翌月、KMCのデーラーミーテングの機会に、当時国内にジェットスキーのレース組織、JJSBAを立ち上げるべく渡米された苧野豊秋さんをアメリカのジェットスキー協会と田崎さんが繋いでくれた時の写真である。
苧野さんは、田崎さんはジェット時代、私は単車に来てから国内関係ではずっとお世話になった上司なのである。
奥寺課長や石川薫さんなどの懐かしい顔も見える。
私も50代前半だから、結構スマートなのである。 懐かしい時代である。
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『カワサキの二輪事業と私』は、このほかの写真もいっぱいなので、別途アップしたいと思っている。
  
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