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のびたの日記

あの時代戦後歌謡が走馬燈 

2017年05月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



私の毎日の中で 夜は歌謡曲など歌番組を良く聴く
楽しく聴きながら それとは別な意味もある うたごえでは100名内外の方の歌唱を伴奏する
常日頃から 音感を養うとか リズムに乗る 自分で心の中で口ずさんでみる
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印象に残ったのが 戦後すぐの 荒廃と混乱の中で歌われてきた曲である
生き抜くために必死であった私たちの両親の時代でもある
そんな中で希望であったり共鳴 励ましの歌にもなって行っただろう
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私はと言えは 疎開で開墾して住んだ 信州の山奥 小学校1年から5年の半ばまでが当てはまる
しかし 今聴いても これらの歌は 素直に私にも溶け込み 懐かしく聴こえてくるのだ
どこで覚えたのかは分からない 電気もガスも水道も無い もちろん ラジオも無かった
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何曲かは 多分 姉や母が口ずさんでいたのを聴いたのだろう
東京へ出てきたのが小学校5年の半ば 下町へ移り住んだが 当時の風景は少しだけ思い出せる
すさまじい発展は続けられたが 昭和20年代の光景は眼に浮かんでくる
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傷痍軍人が街角にアコーディオンを持って立ち 「異国の丘」や「啼くな小鳩よ」などを演奏していた
足元に 空き缶が置かれ 何がしかの小銭が入っていた 時には偽物も居て母に注したことがある
人が居なくなると普通に歩いていたのだ 母は 「それでもいいの」貧しいくせに小銭を入れるのだった
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京成上野駅から国鉄上野駅に地下道が続いていた 小さな売店が立ち並び 食べ物の匂いも漂う
それが切れる辺りに 筵などを持ち込んで浮浪者がいっぱい横たわっていた
気持ちは悪いけれど 別に悪さはしない 多分 そんなことをしたら追い出されてしまうからだろうか
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『星の流れに』 満州から引き揚げてきた看護師の女性
仕事も無く食べるものも無く上野駅の地下道で 恵んで貰ったおにぎり
以後 転落して辿る路は 身体を売って生き抜くことだけ 新聞の投書に載った

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温泉地にも見られたスマートボールにも客が入っていた
この頃パチンコが遊技台として街に店が出てきた 盤面に釘がいっぱい 当たっても2個とか5個の玉だ
落ちた球を拾って遊ぶ子供が居た 客の足元を縫って玉を広い 空いている台に入れて弾く
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それは貧しくて何も無い私と 同じ境遇の子どもたちでもある
パチンコ屋からは レコードの曲が流れている 「上海帰りのリル」などであった
それでも それは昭和26.7年頃の光景だ それ以前は私には田舎の極限の食糧難しか想い出は無い
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今 懐かしく 当時の曲を聴く 併せて母たちが苦労して 育てたきて今の私があることを感謝するのだ
ボランティアでは この時代の曲を多く聴かせ 歌って貰う
それぞれの想い出と生きてきた環境は違うが 歌だけはみんな共通であり 共鳴 共感であった
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この歌を聴かせるとき 会場では籠に入った りんごをプレゼントした
当時は 最高級の果物 貰えた人は大喜びした
歌った 並木路子 さんは歌うことを拒んだ 私も肉親を亡くしてこんな気持ちになれないと・・
しかし 君が歌ってこそ 同じような方たちが励まされるのではないかと説得された
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異国の丘 満州に居た作曲の 吉田正 さんが みんなの士気高揚のために最初は作った
しかし 戦後抑留され 仲間たちと共に 生き抜いて祖国日本に還ろうと励まし合った
早くに帰還した抑留者の一人が のど自慢 で歌って一躍 作詞作曲不明で大ヒットした
その後 吉田正 さんが帰国して判明 以後作曲活動に入り 4千曲ほど ヒット曲も多かった
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今月 うたごえバスツアーで 吉田正音楽記念堂 茨城県・日立市 他 歌いながら行く
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戦後すぐ 皆さんに愛されて 希望を見出したり 励まされたり この世に居ない誰かを偲んできた
そんな意味では この歌たちには ただヒットしただけではなく 多くの人の心の魂が込められている
言って見れば 音霊 歌霊と言う言葉は無いが この歌たちを歌うと そんな気がしてくるのである
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        最後までお読みくだ-さいまして有難うございました m(_ _)m
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