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雑感日記

カワサキの二輪事業と私 その52 昭和56年(1981) 

2017年05月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★この当時、日本の二輪生産台数はは1976年ホンダのロードパル、77年ヤマハのパッソルをきっかけに特に50cc分野を中心に年々大幅に増大し80年代に入っても急激な伸びを示していた。特にヤマハは81年には『100万台計画』を掲げ、国内市場シェアでホンダに僅差に迫り、首位の座を狙っていたのである。
『HY戦争』と画像検索したら、『スズキの方』が書かれたらしいこんな記事が現れたのである。
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70年代はカワサキは国内では50ccモペットを持たないので一人影響を受けずに済んだのだが、80年代に入ると
この『HY戦争』がアメリカ市場にまで及んで、KMCは大きな損失を数年に亘って出し続け、その影響を受けて川崎重工業自体がKMCとの連結決算の結果『無配』に陥ってしまうという状況に追い込まれたので、『KMC対策』は単車事業部だけの問題ではなく川崎重工としての最大の課題となり、この年の初めごろから、その対策としての『人事問題』が大きな問題として検討され続けていたのである。
その結果は、6月になって『高橋鐵郎・田崎雅元コンビ』ということに決まるのだが、その間いろいろと『私自身の名前』も周囲から何度も聞かれたし、現実に山田・大西常務などからは、直接具体的な話としてもあったので、ひょっとしたらと覚悟もしていたのである。
当時・アメリカを担当していた田崎さんか、私かということだったのだろうが、私は販社経営は経験があるがアメリカ市場は未経験だし、田崎さんはアメリカ市場は経験者だが販社経営は未経験だったのだが、私は現実に『国内販社を担当していた』ので、田崎さんということになったのだと思う。
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★この『カワサキの二輪事業と私』もいよいよ80年代に入り、カワサキの二輪事業で尤も危機的状況であった81年からの数年間に入っていくのだが、私自身はその具体的な記録の書類などは、今でも手元にもあるのだが写真などは一切持っていないので、田崎さんに『当時の写真持ってませんか?』とメールしたら、こんな写真をメッセージをつけて、送って頂いたのである。
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 私は川崎航空機の昭和32年度入社なのだが、田崎さんは昭和33年入社で私のほうが1年先輩なのである。
 田崎さんとは彼のジェット時代から組合関係の常任幹事会で顔を合わせていたし、田崎さんが単車に来てからも、レース関係では私の最初のレース現場だった山梨モトクロスでは、?橋鐵郎さんが『技術関係が頼りない』と思われたのか、田崎さんを助っ人に派遣して頂いて、二人でレース現場を仕切ったりし、カワサキが初めて鈴鹿を走った時のレースマシンは、製造にいた田崎さんが山本隆くんのために都合してくれたのである。その他『源平芸能合戦』というにテレビイベントに会社として出演した時には、応援団などいろいろと具体的に手伝ってくれたりしたのである。
会社の中で、『ただ知ってる』人は沢山いるのだが『一緒に何かをやった』と言う人は意外に少ないのだが、ご縁があって田崎さんとは、若い頃から現役最後まで、ずっと一緒に『いろんなこと』を『協働した仲間』なので、今でも気安くお付き合いができるのである。
今回も写真と一緒にこんなメッセージをつけて送って頂いたのである。
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古谷さん
貴方のお蔭で昔の話を思い出すチャンスを頂き有難うございます。
私は、1981年(昭和56年)4月1日付で部長職に昇格となった。 名刺は、発動機事業本部単車営業本部管理部 部長となっている。今思えば、当時危機的な状況に直面していた米国KMCに派遣されるという道筋が何となく出来ていたようだ。
そのあたりは、古谷さんのほうが裏情報を持っているかもしれない。
KHI本社では、明石に数人いた取締役から誰かをKMCに出向させるべきだという声が上がっており、落としどころとして高橋鉄郎理事がKMC出向することになったと聞いている。6月頃だったか、ある日高橋さんから「8月からKMCに出向することになった、君も一緒に行ってもらう、僕は会長、君は社長をやってくれ!」
「ただし僕は短期1年くらいで帰国することになるだろう」と言われた。 大きな不安も感慨もなく、骨は高橋さんが拾ってくれる、と自然体で受け止めたように思う。8月に青野取締役本部長、高橋理事と共に渡米、直ちにKMCの臨時取締役会を開催、高橋さんは会長、私は社長に就任した。
その後KMCの再建のため、構造改革、特に財務内容の抜本的な改革のためKHI本社を巻き込んで増減資を含め日本サイドに販売に係るコスト、費用を大幅に移転する事になり、親会社KHIを無配に追い込んだKMCの社長、という不名誉を背負い、親戚からお前はKHIを首になるのではと心配された。
とにかく、日本車全体の過剰在庫、為替レート、250円/ドル 金利20%という市場環境、銀行からはサブスタンダードと評価され、借入には親会社KHIの保証が必要という状況の中でのキックオフであった。
緊急対策としては、増減資、リンカーン工場のKHIへの譲渡、明石からの製品、部品の輸出条件の変更(L/Cアットサイトから180日サイトへ)P/Lコストの明石負担、KMCサイドは、スノーモービル事業からの撤退、人員削減、部品倉庫の集約、対ディーラーの販売条件(フロアリングと称する掛け売り)の変更、等悩んでいる暇は全く無かった。
今思えば、当初の2年間は、もともと技術職として、品質管理、補給システムのプロとして活動してきた私にとって、未経験な分野を学びながら常識を信じて走り続ける毎日だったが、「俺が一番に困るのは何かおかしい、俺よりも困る経営幹部が必ずいる筈だ」と腹をくくっていたのでさほど悩んだという記憶はない。
KHI本社の若い人達にもいろいろ助けて貰ったが、その殆どが後に日の当たるサラリーマン人生を歩んでいる事を嬉しく思っている。
一連のKMC対策について、古谷さんには、私の明石サイドのキャッチャー役を務めて貰い、帰国後の高橋さんと共に本社との間で、随分とご苦労を頂いた。
?後に、この経験から「子会社を赤字にしてはならない!」が私の経営理念の一つになった。
*************************田?雅元
 
★この『KMC問題』は当時の単車事業部よりは、むしろ川崎重工本社財務部門を中心に対策がなされていて、このプロジェクトは単車出身の山田熙明常務(後川重副社長)中心で検討されていたのである。
塚本本部長は、この年3月にはこの問題の責任を取って青野格本部長に交代されることになり、国内のカワ販の社長も塚本さんから青野さんに交代することになったのである。
8月からは高橋鐵郎さんが、KMC会長としてアメリカに出向されるのだが、高橋さんとはこの数年ずっと開発途上国・ヨーロッパ営業・国内カワ販と同じ道を歩いて来た関係もあって、アメリカに行かれてからも、いろんな情報を伝えてこられて、『予想以上にに大変』だから、『カワ販からも手伝え』と言ってこられたのである。
当時の単車事業本部には『開発・生産』分野の専門家はいっぱいいたのだが、『販売会社関係の特に財務関連』の分かる人は皆無と言ってもいい状況だったのである。
そんなこともあって、カワ販の定期採用一期生の富永邦彦・日野勉というカワ販最優秀コンビをKHI経由ーKMCに逆出向させることになるのである。このコンビはKMCの田崎社長、その次の百合草社長の時代、具体的にはKMCの累損消去までの期間KMC出向となたのである。
この辺りが『高橋鐵郎さんのカンの良さ』で、カワ販にも出向されたし、東南アジアでの合弁の経験などから、カワ販の若手の勘の良さを買っておられて、東南アジアにも耕守・久後というカワ販の若手がすでに現場を手伝っていたのである。
翌年から私自身もこのKMC対策をKHI企画という立場からお手伝いすることになるのだが、この時、富永・日野くんが、KMCにいてくれたので、説明抜きの高次元のやり取りが出来てホントに重宝したのである。
大体、いろんな問題を検討するときに、専門家ばかりだと『説明抜き』で高次元の話が回るのだが、そこにアマチュア入っていると、『説明』をしないとなかなか解って貰えないのである。例えば開発や生産の話に私が入ると、『説明』がないと話について行けないのだが、逆に『マーケッテングやバランスシート対策』などの話に『技術屋さん』が入ると説明が必要で回りくどくなってしまうのである。
カワサキは国内の営業現場はカワ販が担当する構造体制から、なかなか営業分野の『プロが育ちにくい』環境にあるので、この辺りがちょっと問題だなと、今でもそう思っているのである。
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★ ちょっと違った観点から、この当時の『カワサキの二輪事業』がどんな状態だったかというと、川崎航空機出身の人たちは『エンジン専門家』以外は二輪事業に対して全く経験のない『素人集団』であったのだが、そこにいろんな形で、異種・異質な人たちのいろんなソフト・ノウハウが、おおらかに取り込まれた形の運営があって、そこに『カワサキ独特の二輪事業の体質』みたいなものが出来上がったのだと思っている。
その柔軟さ、おおらかさは文字通り特筆もので、当時の川崎航空機自体が戦後の長い中断の後、いろん亜部門が集まって再スタートした『若い企業』らしい雰囲気があったのだと思う。
順不同に思いつくまま列挙すると
● まずは国内のメイハツ・メグロの人たちの営業分野での『ソフト・ノウハウ』?の取り込み
● 開発部門などにもメグロの技術屋さんが特に『車体関係』のノウハウを持ち込んだ
● たまたまBSやダイハツからカワサキに移った人たちも多く、そのノウハウが生きた
● 生産分野では、ジェットエンジン部門からの異動が多かったので、IBMや進んだアメリカ式生産管理ノウハウが持ち込まれた
● 主力市場の『アメリカ』では二輪に詳しいアメリカ人達が中枢にいて特に『開発分野』や『スタイリング』で機能した
● レース関係では、兵庫メグロの元オートレースライダー西海社長や片山義美さんのプロの意見が大きなウエイトを占めたし、契約ライダーたちが、新車の開発試作車のテストを手伝ったり、意見具申などもしていた。
● 一番は、そんな末端の人たちの意見やソフト・ノウハウをおおらかに取り入れる『そんな雰囲気』がベースあった
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当時から50年以上の月日が流れて、カワサキの二輪事業も独特の『ソフト・ノウハウの蓄積』もあり、プロも多いのだと思うが、この辺りの『柔軟性』がやや失われて『大企業の行儀の良さ』みたいなものばかりが目立つような気がしてならないのである。
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★ 田崎さんのコメントの中にもあるように、
今思えば、当初の2年間は、もともと技術職として、品質管理、補給システムのプロとして活動してきた私にとって、未経験な分野を学びながら常識を信じて走り続ける毎日だったが
『常識を信じて』というのが結構正しいのである。
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 KMC意外にも、いろいろあったと思うのだが、単車事業部長であった高橋鐵郎さん自らが『KMCに出向』というちょっと普通では考えられない人事が行われた年だったのである。
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★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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