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のびたの日記

花魁も今はイベント花散歩 

2017年04月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



ランチコンサートの日 浅草では 花魁(おいらん)道中が行われていた
実際には行っていないので 実施されたか雨模様も加えて 結果は報道も含めて見ていない
浅草の観光連盟が主催する行事で 芝居を観るように 明るい催しである
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花魁道中とは 客の指名を受けて 花魁が自分の部屋から店へ行く この間を指す
格式高い花魁 禿(かむろ) 新造 鼓太夫 遣り手などを従え 独特の八文字を描きながら歩く
ただの娼婦では無い 容姿 気立て 詩や音楽 文学 なども教育され格式も高い
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遊びに行ってもすぐ会えない 一度目は誰か指名=初会 二度目=裏を返す 三度目=馴染みとなる 
裏をかえすとは さいころの1の目の裏は6 いろはのいの次はろ=6 一の次でようやく心通じるのだ
三度目でようやくお馴染み この馴染みが おさななじみ や 店のお馴染みさんとか 現代にも生きている
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遊郭には安く遊べる女もいる 但し花魁と遊ぶには 客もそれなりの教養と財産が無ければ行けない
江戸時代の初期には遊女が多く居た 幕府が出来て関西からも多くの商人たちと遊女も集まる
やがて幕府公認の傾城地(けいせいち)が 現在の人形町付近に出来た 1617年のことである
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更に幕府は1656年移設を命じ 浅草の日本堤か本所と指名したが 明暦の大火があって現在地へ移った
明治5年解散令が公布されて 5000人の遊女が解放されたが 行くところも無く騒ぎ出す
これを受けて明治8年 料亭形式の貸座敷形態で開業を許可した
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吉原は数度の火災を受けた 明治44年 大正12年の関東大震災 この時は多くの遊女が焼死した
この慰霊堂を建立したが これは 現在でも 吉原観音として地元の方が護っている
東京大空襲で全焼 昭和21年はGHQの命で公娼は廃止したが 赤線 と言う名称で1958年まで続いた
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関東大地震で犠牲になった遊女の慰霊 吉原観音 大正時代に建立された


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バブルの頃は ソープランド街と化し 250店もあったと言うが 現在でも風俗営業店が幾つか並ぶ
4月5日に私は隅田川の桜を愛でた後 同じく桜並木が続く 山谷掘りあとを歩いたが 延々と桜は続く
そして 辿り着いたのが この吉原一帯であった 名前は聞いていたけれど 初めて訪ねる地名だった
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山谷掘りを埋め立てた桜並木 1キロ以上続く



吉原の外郭にある



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この一帯が 江戸時代から 華やかでもあり 庶民の賑わいもあったり 遊女の哀しみもあったと肌で感じた
吉原神社も 吉原観音も そんな哀しみや 現在の女性たちを 祈りの場であったり 見守ってきただろうか
周りが風俗営業の店で昼間から明かりが点り 遊びに来た高齢者かと間違われそうで 急いで抜け出てきた
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         最後までお読みくだ-さいまして有難うございました m(_ _)m
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