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立小便の対策 

2017年02月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

面白い話だ。まずは記事からビルの駐輪場で立ち小便をしたとして、軽犯罪法違反罪に問われた男性(36)の控訴審判決公判が7日、大阪高裁で開かれた。福崎伸一郎裁判長は、現場が公共スペースに当たらないとして無罪とした1審大阪簡裁判決を破棄、現場は「街路に当たる」として科料9900円の逆転有罪を言い渡した。 現場の駐輪場が、同罪で規定する「街路または公園その他の公衆の集合する場所」に当たるかどうかが争点だった。 駐輪場は自転車15台ほどを止められるスペースがあり、検察側は「公園その他の公衆の集合する場所」に該当するとして男性を起訴したが、1審判決は「公園などに比べると、極めて狭い」として違法性を認めなかった。 高裁判決も「公衆の集合する場所ではない」として1審の判断を踏襲しつつ、駐輪場が道路に面していることなどから「街路」に当たり、同法違反罪が成立するとした。 閉廷後、男性の弁護人は「現場は私有地であり、街路という判断はおかしい」と話した。テレビの某コメンテーターが言っていた。「こんなくだらないことを扱うな。もっと扱うべきことがあるだろう」と。果たしてそうだろうか。おそらくこのコメンテーターは立小便をさほど悪いことだと認識していないのだろう。憶測で申し訳ないが御自分も数度したことがあるのではないのだろうか。だからこそ「しょうもない話」として片付けようとしたのだろうし、本当にそう思っているのだろう。人が人である最初の規範は道徳である。この道徳さえしっかりしていれば、人は病気でない限り道徳に反することはしない。人殺しも、いろんな悪事も、戦争も、テロも、つまるところ個人の価値観にゆだねられた判別で実行される。つまり、諸悪の根源は道徳の有無なのだ。これを軽ろんしていては、大局を正すことはできない。小さな積み重ねの上に大きな悪事は遂行される。全ては小さな悪の発端から始まるのだ。幼いころの話だ。幼いころの我が家は国道に面した一軒家。角地にあり、丁度立小便に最適の位置にあった。周りから見にくく、かつ広いスペース。立小便推薦地みたいなもの。毎日おふくろが水で洗い流していたが収まらない。まあ、時代性もあり、立小便に寛容だったこともあり立小便地区は普通のトイレと化していた。酷い時には大便まであるから呆れてしまう。色んな対策をしたが一向に改善されない。そこで義兄が考えた。賢い人だ。今は中学の校長をされているが・・・そんなことはどうでもいい。監視カメラをつけたのだ。本物じゃない。本体は本物だが配線はしてないから画像は写らない。電源ランプはつくようになっているから、下から見上げると本物に見える。立小便はピタリと止まった。時折カメラが下に叩き落されていることもあったが、以前に比べれば被害は雲泥の差だ。監視社会。実効性は極めて高い。悪害もあるが(笑) にほんブログ村 心理学 ブログランキングへ

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