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武家の娘が后に(歴史上初めて) 

2016年12月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



天皇家に嫁いだ徳川の姫徳川和子

徳川和子、慣れない禁中の生活、女官たちの嫉妬やいじめ
武家の娘が后になるのは、歴史上初めてのことでした
皇室ゆかりの絶景修学院離宮が出来たのは、和子后の影響力大です
家康・秀忠・家光の三代将軍が、実権の掌握に向けての政略結婚
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』、産経新聞記事(渡部氏)参考&引用
 ☆番組の画面引用(番組集中して視るので理解度深まります)














徳川和子(BS・TBS『高島礼子・日本の古都』ネットより画像引用)

後水尾天皇と徳川和子の「政略結婚」
結果、860年ぶりの女帝生んだ
政治的利害のため、本人の意思を無視して行われた「政略結婚」
苦労が多かった、後水尾天皇と徳川和子の結婚生活
和子は、「東福門院」の女院号を受け、3人の天皇を猶子として国母の扱いを受けた
二人とも政略結婚ではあったが、誠実に互いの人生を生きました?

後水尾天皇は、後陽成天皇の第三皇子
後陽成天皇は、同母弟の八条宮智仁親王を後継者にしたかった
徳川家康は、豊臣秀吉の猶子だった経歴から反対し後水尾天皇で決着した
家康は、秀忠の五女・和子を入内させるべく働きかけた
天皇にすれば、監視役とわかって迎え入れるようなものだ
天皇は、断れず、曲折はあったが和子は正室となった

和子は、2皇子5皇女を生んだ(皇子が亡くなる)
天皇と岳父・秀忠の間にも確執があり、それが爆発したのが「紫衣事件」です
「紫衣事件」とは、朝廷が認めた高僧に紫の衣を与える行為に幕府が干渉しました
それを批判した大徳寺の沢庵宗彭らを流罪にした事件です
天皇の面子は完全につぶされました

後水尾天皇は、怒り電撃的に明正天皇に譲位した
和子も知らされていなかったといわれている
幕府は、皇位継承に大きな影響力を持っており、それを無視した「強行退位」
結果、奈良時代の称徳天皇以来、860年ぶりに女帝が復活した
和子は秀忠に手紙を書き、夫の弁明をして、秀忠は最終的に譲位を容認した

後水尾上皇は院政を敷いて実権を手放さなかった
明正天皇は14年間皇位にあり、その後上皇の3人の皇子が続く
幕府からも多額の援助があり修学院離宮の造営や宮廷儀式の復興などにつながる
後水尾上皇の院政が、朝廷の権威を高めたのは皮肉なことである

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