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両延神社 もみじのおわりに   広島市安佐北区亀山南 

2016年11月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


両延神社 もみじのおわりに  
広島市安佐北区亀山南



由緒
建久元年(1190)武田朝信が宇佐八幡宮の御分霊を下四日市に勧請

建長五年(1252)武田信時が現在地の大毛寺村白石山に奉遷した。

安芸武田氏没落後衰微したが宝永三年(1706)12箇村の氏子により再建。





鋳物産業の盛んな可部地区だけに鋳物の燈籠


 広島にちなんだ原爆ドーム 広島城 電車等


手水龍





石段


石段前の浪速





良い姿です


            彫りがくっきり


天保十四年(1843)


いい浪速型です


随神門


随神










石段途中から奉斎殿への道があります


奉斎殿


鐘堂


昭和四十四年に寄進
寄進者は地元の鋳物鉄メーカー大手の大和重工


随神門から60段


拝殿


水桶?


拝殿内


天保十五年(1844)=弘化元年 鷹図


右は高野村敵討
文久2年(1862)に、赤穂藩森家の家老、森主税と
村上真輔が、尊王攘夷をさけぶ一派によって殺された。

村上真輔の遺児4兄弟と助太刀3人の7名が、暗殺に加わった6名が、紀州高野山に登ることを知り山中で待ち伏せし、高野町神谷の地で村上兄弟は念願の仇討ちを果たすこととなった。
明治4年(1871)2月のことである。

この仇討ち行為がきっかけとなり、明治6年(1873)に仇討ち禁止令がだされることとなり、村上兄弟による高野での仇討ちが、日本で”一番最後の仇討ち”となったのである。
赤穂と云えば仇討ちだが最後の仇討ちも赤穂藩がらみとは
何の因果か?
明治七年奉納 高野村敵討


本殿
三間社入母屋造り








石段途中


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