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大奥の嫁と姑の争い? 

2016年10月31日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



皇族と武家の嫁姑争いの真実

徳川滅亡の危機で、歴史を変えた女たちの決断
徳川滅亡の危機で、実家をとるか、嫁ぎ先をとるか?
激動の時代をたくましく生き抜いた2人の女性
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
 ☆番組の画面引用
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』、WIKIPEDIA参考&引用


















皇女和宮(BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組の画面引用)

和宮 親子内親王
仁孝天皇の第八皇女、孝明天皇の異母妹
江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室
家茂死後には落飾し、静寛院宮と名乗った

天璋院(篤姫)
薩摩藩島津家の一門に生まれ、徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった
実父は、薩摩藩主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛
母は、島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫

和宮の家茂死後
孝明天皇は、通商条約(兵庫港開港)を勅許した
和宮は「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに、条約が勅許されては」朝廷に再考依頼?
幕府軍は、長州征伐に勅許を得たものの、薩摩藩の出兵拒否などもあって開戦は延引となっていた
大坂城内の家茂は、体調を崩し、家茂の訃報が江戸に届く
一橋慶喜を15代将軍に立てるべきと判断し、和宮は「慶喜の跡を継がせればよい」とした

和宮は落飾し静寛院宮と改めた
和宮は、孝明天皇が崩御で、1年間で母・夫・兄を失う
孝明天皇の崩御により、佐幕派で占められていた朝廷の顔ぶれは大きく様変わりする
天皇は、和宮の帰京の方策を講ずるように内旨したが交渉は進まなかった
将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返還し、徳川政権の延命を図った
薩長両藩と手を結んだ朝廷内の討幕派は、王政復古の大号令を発し慶喜には辞官と領地の返上を求めた

江戸城の無血開城と和宮
江戸城の開城・徳川慶喜の謹慎・幕府海軍の武装解除など、徳川家存続に向けた条件合意
幕府側は、恭順の意を示した歎願書を渡し、朝廷もこれを受け入れて江戸城の無血開城がなる
和宮は、朝廷の内意を徳川幕臣に知らせ「今は恭順謹慎を貫くことが家名を守ることになる」と説得にあたった

朝廷は、慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定
和宮と実成院(家茂生母)は清水邸へ、天璋院は一橋邸へ
和宮は、朝廷に徳川家への寛大な処分に対する御礼文を書いている
徳川家の駿河国移封・所領は70万石に決定

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