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『連戦連敗』の天下人徳川家康 

2016年10月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



徳川家康『連戦連敗』の天下人

「不運で短気」な少年時代
「三方ケ原の戦い」大敗北の真実
「負けるが勝ち」最後に笑う方法
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
 ☆番組の画面引用
出典、番組BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!),WIKIPEDIA






















徳川家康(番組BS11「尾上松也さんの古地図で謎解き!」引用)

徳川家康!の波乱の人生
滅亡寸前の家系に生まれ、3歳で母親と生き別れ、4歳で父親に見捨てられた幼少時代
織田と今川の間で振り回された少年期
武田信玄、豊臣秀吉、真田昌幸などに負けた青年期
大坂の陣では真田幸村に追い詰められた徳川家康熟年期
関ヶ原の戦いで勝利し、晩年にして歴史の舞台の主人公

徳川家康少年期の人質時代
家康の祖父は、織田家との戦争中に亡くなってます
国力の弱い松平家では単独で領地を守ることができませんでした
今川義元に守ってくれと要請し、家康を人質に差し出すことでした
駿河に送られて今川家の人質になるところでした
その直前、継母の父親が、織田信秀に家康を売り渡してしまいます
松平家は、今川家の家来であり続け、それに報いる形で今川家の人質となりました

三方ヶ原における合戦の経緯
徳川軍は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた
一方の武田軍は、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていた
家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策から、積極攻撃策に変更し浜松城から追撃に出た
三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えていた
武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、甚大な被害を受けて敗走する
本多忠勝などが、武田軍相手に奮戦したこともあり、家康を討ち取られることはなかった

小牧・長久手の戦い
豊臣秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い
この合戦に連動した戦いが、北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった
織田信雄が撤退したため、徳川軍勝利していたが、結果的に敗北?

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