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平成の虚無僧一路の日記

伊賀越えで 消された「穴山梅雪」 

2011年02月15日 外部ブログ記事
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天正10年(1582年)3月、信長・家康連合軍が 信濃・甲斐に侵攻し、
武田家は滅びたのだが、実は、武田の名跡は「穴山信君/梅雪(あなやま
のぶきみ / ばいせつ)」の子「勝千代」に引き継がれた。

穴山梅雪は、母が信玄の姉、妻は信玄の娘 ( 見性院 )。武田信玄の
甥であり、武田勝頼からみれば、従兄弟であり、妹の夫。

穴山梅雪は、家康が甲斐に侵攻してくると、「武田の家督相続と
本領 安堵 ( あんど )」を条件に、さっさと勝頼を裏切り、家康の
下に降った。

信長は、戦後の論功行賞で、穴山氏の本領「甲斐河内」を安堵し、
嫡子の勝千代が 武田氏の当主となることを認め、家康には駿河を
与えて、駿河、三河、尾張を廻って、4月21日安土に帰った。
徳川領内をしっかり検分したのだ。

家康は、「武田攻めの戦勝祝い」と「駿河一国を得たお礼」と称して、
穴山梅雪を連れて、5月14日 安土城に信長を表敬訪問する。その時の
接待役が明智光秀だったが、17日 光秀は接待役を解かれ、坂本に
帰城する。

この、突然の「接待役を解任」について、「家康の饗応がぜいたく
過ぎると信長から叱責を受けた」など、いろいろ言われているが、
それらはすべて後世の作り話。明智憲三郎著『本能寺478年目の真実』に
よれば、この時、光秀は、信長から「四国の長宗我部懐柔策を
変更し、討伐軍を出す」ということを聞かされ、それに反対し、
信長の怒りをかう。光秀としては、長宗我部には斉藤利三の妹を
嫁がせ、縁戚関係を結んでいたからである。そして、さらに
信長から「家康を殺せば、尾張、三河、駿河を与えよう。
その代わり、坂本と丹波は召し上げる」というような密命を受け、
光秀は動揺する。そして 思案の末、光秀は、家康と娘婿の細川
忠興、舅の藤孝に、すべてを打ち明ける。

そこで表向きは「秀吉から毛利攻めの援軍を要請してきたため」と
いう口実で、安土を去り、本拠地の坂本と領国丹波で軍を整えた。

そして 光秀は 6月4日、京都に引き返す。「敵は本能寺に有り」で
ある。この時、光秀の家臣はみな「徳川家康を討つためと思っていた」と
記録がある。光秀が大軍を率いて京に入ってきたことに信長が疑いを
もたなかったのも、「家康を討て」という命令を実行するものと
踏んでいたからに他ならない。

家康と穴山梅雪は5月21日に安土を出立して、堺に行っていた。
6月3日、岸和田には、四国の長宗我部を討つための軍勢が 終結し、
渡海の準備をしていた。家康はそれを見ていたであろう。

このような状況の中で、6月4日「本能寺の変」が起きる。

家康が、伊賀を抜けて、伊勢白子から 舟で知多に渡り、無事
浜松まで帰れたのも、秀吉が、備中高松(福山の北)から7日で
「大返し」できたのも、すべては、「光秀の謀反」を事前に
知っていて、手はずを整えていたからだ。

家康は無事帰れたが、同行していた「穴山梅雪」は途中で殺された。
『家忠日記』に「切腹」とある。なぜだ? 家康は「光秀の謀反を
知っていた」ということを隠すため、「混乱の中、ほうほうの体で
三河に帰ったことを演出するために、穴山梅雪を殺したのだ。


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