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雑感日記

赤タンクのカワサキの時代ー3 1965,1966 

2010年04月27日 外部ブログ記事
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カワサキのレース活動の実質2年目、ようやく組織らしい活動の状態になった年だとも言えるだろう。
2月に山本、歳森のBSとの仮契約騒ぎがあって、神戸木の実の主宰者、片山義美さんにその調整を依頼しその会談に出席して、今までヨコから見ていたレース活動に初めて正式に手を染めることになったのである。

そのときの話し合いの中で、片山義美さんに指摘されたことが、カワサキのレース活動の質を一変させたと言ってもいい。

山本隆君のBSへの移籍の動機にもなっていたロードレースへの参加も、
5月に会社には黙って非公式に出場を果たした。これを手伝ってくれたのも田崎さんである。
その結果が思わぬ3位入賞となって、6月の鈴鹿6時間耐久レースにカワサキとしては正式にロードレースへの参加を決定したのである。

社内にも技術、営業、生産の各部門のメンバーを集めた『レース運営委員会』なる組織が正式にスタートして、その事務局を担当した。
同時に、MFJの運営委員会にも各社の錚々たるメンバーに若輩ながら末席に参加させていただいたりした。

6時間耐久レースには、大槻レース監督という初めての形で望んだし、このレースにカワサキのライダーとして、初めて金谷秀夫が歳森康師と組んで出場したのである。
金谷もこの年、新人としてのデビューであったが、
モトクロスの世界でも、星野一義もアマチュアの資格ながらモトクロスに参戦し、全日本をはじめあらゆるレースで抜群の成績を残したのである。
その星野の好敵手だったのが、同じクラスのスズキの吉村太一ちゃんであった。

鈴鹿の24時間耐久レースが開催されたのもこの年である。
カワサキは勿論まだ不参加だったが、MFJの役員と言う形で参加した。
夕方の5時のスタートであった。

秋のGPにはカワサキも安良岡健の個人参加と言う形での参加があって、ようやくロードレースにも本格的な活動を開始した記念すべき年であった。


★1966年 昭和41年

この年までの3年間、カワサキのレースを担当した。
この3年目は、いいこともあったが大変な年でもあった。
初出の日、1月5日に藤井敏雄君と契約の件で話をした。こんなことでこの年がスタートしているのである。

カワサキもGP125を本格的にやるべくライダーも安良岡の一人から金谷、藤井の3人体制でスタートさせたのである。
藤井敏雄君とは本人のたっての希望で秋の日本GPまではライダー契約ではなく、『マシンの貸与契約の形』で欧州のGPを転戦し、その結果を見て個人契約を結びたいと言うことだったのである。

日本GPと言えば、この年鈴鹿からFISCOにその舞台が変わることになっていて、MFJの運営委員会ではホンダさんがあの『須走り落とし』と言われた第一コーナーが危険と主張し、日本GPへの参加を見送った年でもあった。

レースには関係ないのだが、7月6日には、『ビートルズが東京にやってきた』
その翌日の、7月7日から、
カワサキのF21Mのファクトリーマシンの製作が、故松尾勇さんの手でスタートされたのである。モトクロス職場で、ヘリコプターのクロモリのパイプに砂をつめて1台ずつつくりあげる文字通りの手作りであった。
7月11日に1号機が完成している。
ダブルクレードルの松尾さんが設計図もないままにつくりあげたフレームに238cc単気筒エンジンを積んだ独特の排気音は技術オンチの私でもよく覚えている。

その後一世風靡した名車としてレース界に君臨したのである。
『カワサキの赤タンク』の名声を作り上げたのはこのマシンと
当時の山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義のライダーたちだろう。

当時はジュニア、アマチュアなどにも、大型専用トラックに満載するほどの貸与マシンを積んでのレース活動で、50台ぐらいのマシンを積んでの出場だったのである。
カワサキのMX黄金時代であった。

★この年の後半は、ロードレースで大変な年であった。

8月27日、マン島のプラクテイスで藤井敏雄君が転倒、帰らぬ人となったのである。

そのあと、日本GPのライダーとして契約したデイグナーもFISCOの練習中に転倒、一時はその生死もわからぬような事態になったのである。

外人契約をするのも初めてで、社内には経験者は一人もいないので、ホンダの前川さんに、鈴鹿まで教えを乞いに伺ったりしたのである。
その契約金を円で結んだために当時、円は海外の持ち出せないために、日銀に顛末書を書いて、何とかしてもらったなどのおまけまでついた。

この10月のレースと、そのあとのモーターショーで、約3年間の有り余る予算のあたt広告宣伝活動とレース活動も担当の期間を終えるのだが、この数年間の経験がその後の人生を左右したとも言える。

ほとんどすべてが『未知の分野への挑戦』であった。
社内には教えてくれる人はいなかった。
当時、カワサキのレースを支えた人たちは、みんな、
技術屋さんもメカニックもライダーたちも、みんな自分で道を拓いた人たちなのである。

知らず知らずの内に『厚かましく、無鉄砲で、未知の世界を恐れない』そんな体質になってしまったのだろう。
そのとき一緒に同じ夢を追っかけた人たちは、みんな職位などを超えた『仲間』なのである。

『カワサキ赤タンクの時代』 そんな時代に生きられて幸せであった。]]>

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