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敗者の日本史(石田三成) 

2016年08月04日 外部ブログ記事
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石田三成(関ヶ原の合戦で大敗)

関ヶ原の戦いで敗戦後、石田三成逃亡を図る
津軽で生き延びた石田三成の家系
関ヶ原合戦後の豊臣家の所領三分の一に減らされる
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください










石田三成(ネットより画像引用)

石田三成略歴
年少より豊臣秀吉に仕え、五奉行のひとりとして太閤検地などで活躍
秀吉の死後、徳川家康と対立し、関ケ原で敗れた
秀吉死後、豊臣の忠臣として政権を狙う徳川家康に挑んだものの関ケ原で大敗を喫し斬首

関ヶ原の戦いで敗戦後、石田三成逃亡を図る
関ケ原合戦で実質的に西軍を率いて家康に敗れた石田三成は、関ヶ原から逃亡した
居城の佐和山城に帰ることなく、近江国の領内に身を隠していた
佐和山城は、田中吉政の軍勢が天守に攻められ落城し、三成は田中吉政に捕縛された
三成は、大坂へ送られ、大坂・堺の町衆の前を引き回されたのち、京都へ移送された
三成は鴨川のほとり六条河原で斬首される

津軽で生き延びた石田三成の家系
石田一族の多くは討ち死にしたが、三成の二男は津軽氏に匿われ杉山源吾を名乗った
子は後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた

関ヶ原合戦後の豊臣家
関ヶ原合戦で西軍が祭り上げた豊臣秀頼は、十歳にも満たない少年であつた
秀頼の所領高は、二百二十万石あり、徳川家をも凌ぐものであった
合戦後には、摂津、河内、和泉の三カ国(65万石)が認められ所領は約三分の一となった
削減された所領は、東軍の諸将に恩賞として配分された
石田三成が関ヶ原合戦で敗れたことにより、豊臣家は一介の大名となった

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