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カワサキの二輪事業と私  そのー8 山田熙明専務とのお約束 

2016年07月29日 外部ブログ記事
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★ 昭和36年(1961)が実質的なカワサキの二輪事業のスタートだとすると、今年2016年でもう55年の月日が流れたことになる。
その間、事業の中枢としてカワサキの二輪事業を引っ張ってきた市場、アメリカの販売会社KMCは今年で50周年を迎えるのである。
そんなKMCだが1970年代後半、オイルショックあたりから陰りが見えはじめ、1978年のダンピング訴訟の頃ら年次損益の赤字が目立つようになり、国内市場で激烈であったHY戦争(ヤマハがホンダに仕掛けたシェア競争)はアメリカ市場にも飛び火して、さらにリンカーン工場で生産していたスノーモービルが雪不足で思わぬ在庫になったりして、1980年度には、赤字幅は増大し、事業部本体の経営も赤字に陥ってしまうのである。
そんな状況は81年になっても止まらず、KMC も事業本部も大赤字となり、川崎重工業本体も無配に陥るなど大変な事態になってしまったのである。
その81年度には、川崎重工本社財務本部も資金的な応援体制を敷き、事業本部サイドは、高橋鐵郎単車事業部長と田崎雅元さんの会長・社長コンビをKMCに送り込み経営再建を図るのだが、その年もKMC は100億円に近い大赤字が続き本社も事業本部サイドもその対策に単車出身の山田専務を長とする『単車委員会』で対応しようとしていたのである。
この1981年からの数年間、『カワサキの二輪事業存亡の危機』を乗り越えて今のカワサキがあると言っていい。
 
★ この時期の問題点は、アメリカのKMCをはじめとする海外子会社の赤字が、事業本部の経営にも影響したし、連結損益となって直接川崎重工業の当期損益を圧迫してしまうのである。その海外子会社の赤字を本社の資金投入で対策しようとしたのだが、特にKMCの赤字が止まらないので、流石の本社のエリートたちも、販売会社の経営経験はなく、その対策にアタマを悩ませていたのである。
そんな時期、国内販社の『カワ販』だけは400FXの好調もあったりして、独り順調な経営を続けていたのである。
『単車委員会』の長をされていた山田専務は、単車のご出身で創成期のファクトリーレース委員会の長もされていたし、中学の先輩ということもあって、若い頃から可愛がっていただいていたのだが、その山田専務に82年7月1日に突然本社に呼び出されて、海外販社の赤字についての『私見』を問われたのだが、『大丈夫すぐ黒字になります』とお答えしたら、『それならお前が企画をやれ』と即座に言われて、私は引き受ける条件として『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してほしい』と申し上げたのである。
カワサキの二輪事業のスタートの時期から、私自身は販売第1線の代理店も、販売店も、メーカーの直営部も、海外の開発途上国のCKD 事業での販社経営も経験し、その時点では国内のカワサキオートバイ販売の責任者をしていたのだが、そんな経験から『販売会社』と言うのは規模の大小に関係なく、どんなレベルでもその経営は成り立つのである。
それが『赤字になる』のは、一言で云えばそれは『人災』なのである。
そして、その殆どが身の丈を考えない『頑張り過ぎ』が殆どの原因で、一番大きな要素は資金問題『営業外損益』が問題になるのである。この時点では、本社財務が資金的には支援体制にあるので、『旗の振り方』さえ間違えなければ、販売会社を黒字にするのはそんなにムツカシイことではないと思ったのである。
 
7月1日に、山田専務に本社に呼び出されて、10月1日に新職制で企画に戻ることになるのだが、これは8月25日に山田さんから頂いた手紙である。
これらの人事組織は、当時の本社トップで進められていて、『他言するな』と仰っているのである。
そして カワ販式経営を単車全般に適用するしか方法はない とまで仰って頂いているのである。
 
  
 
これから約5年間の目標は、海外販社の経営の黒字化 が第一の目標で、海外子会社さえ黒字化すれば、日本の事業本部の赤字などは当時の造船部門の黒字で十分に相殺できるそんな時期だったので、当時の財務本部長の堀川常務からは『海外販社さえ黒字に成れば、明石の赤字は少々あっても大丈夫』と私は直接の指示を受けていたのである。
この時期の二輪事業経営の決定は、実質すべて『本社財務部門』や 山田専務(副社長)など『単車委員会』が仕切る時代が続くのだが、その窓口をずっと引き受けたのが私なのである。
従ってこの期間、私の『報告先』は事業本部長でもあったが、実質は川重本社の財務本部長や財務担当副社長に報告することがずっと続いていて、大庭本部長時代に一番問題であったKMC報告は、毎月の取締役会に財務本部の松本新さんが自ら報告されていて、そのKMCの内容については、私が毎月KMC社長の田崎さんに替わって松本さんに報告をしていたという不思議な状況が半年以上も続いたのである。
この時期、ちょうど上市されたのが、最初の Ninja900 の時代で、事業部の一般の人たちは、当時の事業部は、Ninja900の好調で生きかえったと思われている方が殆どなのだが、実際は財務本部が用意した何百億円の資金手当てがあって初めて、二輪事業再建がなされたのだが、こんなことをご存じの方は、極々少ないのである。
 
 ★この5年間の間には、本当にいろんなことがあったのだが、全体の二輪事業の新しい仕組みの絵を描いたのは私だが、本社部門も、大庭・高橋本部長副本部長も、二輪事業部のいろんな部門の専門の人たち(プロたち)の それぞれの立場での協働があって初めて、その仕組みが機能したのである。
 
今回は、そんな中の一つをまず、ご紹介したいと思う。
 
この時期、販売会社の経営ノウハウを持っているのは国内のカワ販グループのメンバーだけだったと言ってもいいのである。アメリカKMCの会長となられた高橋鐵郎さんから私に、『カワ販のメンバーをKMCに出してほしい』と要請があったのは、アメリカに赴任されてすぐの時期であった。
いろいろと考えたが、若し出すとすれば『カワ販のトップクラスを』とカワ販定期採用第1期生の富永邦彦くんを出すことに決めて、独りで出して『潰されては』と思ったので、日野勉くんとの二人をカワ販から逆出向の形で、アメリカの企画部門に送り出したのである。
二人が、アメリカに行ったのは、時期的には私が川重の企画に戻った昭和57年10月と同じ時期になったのだが、この話が最初にあったのは、その半年前だったのである。
海外販社の経営改善のために、私がまずやったことは、『翌年度1月からの海外販社の事業計画をすべて明石で創る』ことからスタートしたのである。
それまでは海外販社がそれぞれの立場で、創ってきたものを明石サイドはホッチキスで纏めるだけだったのだが、それを海外販社との協働で明石サイドの経理・財務のプロたちも協働して創ったのである。
この年、それを担当してくれたのは、五百井壽夫さんと湯浅くんである。そしてその二人を中心に企画室に関連事業課と言う新しい組織を発足させたのである。
従って、海外販社の経営状況は、海外販社の責任でもあるのだが、それ以上に明石の関連事業課、それを統括する企画室がきっちりと責任を負うそんな体制にしたのである。
当時は、ドイツなどもZ1Rが当時は不人気で在庫過多で大変だったのだが、何と言ってもアメリカのKMCの事業計画をどのように策定するかが一番のキーだったのである。
 
こういうと一般の方は、不思議の思われるかも知れないが、
こと販売部門の専門的なことについては 当時は川崎重工籍の人たちには『説明する』レベルでとても『議論する』レベルではなかったのである。 専門分野の話というのは、その道のプロたちの間ではある一定以上のレベルでの話になるのだが、その中にアマチュアが入ると、いちいち説明しなければならぬところまで話のレベルが下がってしまうのである。
そんな時、KMCには『富永・日野くん』がいて、私との会話が非常にスムースだったし、その上にはカワ販を経験した野田浩志さんもいて、その人たちとの協動でその年の『KMC事業計画』が創られたのである。そしてその事業計画は川崎重工業の社長以下の本社部門の決済が要る、そんな時代だったのである。
そんな事業計画が 、何の問題もなく通ったのは当時のKMCには、川重本社からのメンバーもいっぱい出向していたのである。つい1年前までの川崎重工の松岡副社長も、現在のカワサキの二輪事業部のトップ富田常務も当時の財務本部からの出向メンバーの一人だったので、そんなメンバーたちが創る事業計画は、非常に信頼が厚かったのである。
当時、KMCには売れ残った在庫車がいっぱいあったのだが、それら新古車に関して、本社財務が投入した巨額の資金ですべて『アメリカの中古車価格』で再評価したので、その後の販売はそんなに問題もなくKMCは利益計上が出来たのである。こんなドラスチックな発想は、なかなか事業本部育ちには出来ないのだが、本社の枠の中で育つと、自然にこんなことが出来るのである。
 
★ 当時のこんな話は、ホントに限られた当時の財務部門のキーパーソンしかご存じない話なのだが、年月も経つにつれて、ご存じの方は、どんどん少なくなっていくのである。
そんな数少ない方の中で、この期間を一番詳細にご存じの方が居る。
小川優さんである。 
つい昨年まで、NPO The Good Times の監事もやって貰ったり、現在もFacebookもツイッターもおやりなので、ご存じの方も多いかも知れない。
この53年10月の『国内販社の構造改革』以降、本社財務部門とはいろんな形で繋がるのだが、当時の財務本部には川崎航空機の同期入社の横山昌行さんがいたのだが、小川優さんも川航入社だったので何となく知っていたのだが、当時の財務本部で、最も信頼の厚かったメンバーの一人だったのである。
その小川さんが、私が企画部長で戻ったその企画室のお目付け役のような形で、単車を兼務することになったのだが、そんな兼務ではなくて、籍を移して一緒にやろうということになり、小川さんはそれ以降二輪事業のメンバーとしての活動が始まるのである。
その後、2年間ほどで、あれほどひどかったカワサキの二輪事業も立ち直るのだが、特に大庭浩本部長が再建屋として単車に来られて、再建なって本社副社長含みで本社に戻られるのだが、その実質3年間の時期、本社とこんなにスムースに連携できたのは、大庭さんが本社が送り込んだ本部長であったこともあるのだが、いろんな本社との接点を、小川優さんが繋いでくれたことが大きかったと私は思っている。
 
これは、本社ではなく私が自分自身の目標に掲げた『KMCの累損の消去』は、当時は100億円に近かったので、大変な目標で、流石の大庭浩さんも『俺はそんなことは聞いていない』と言われたのだが、販売会社の再建は『累損』などがある限り仮に期間損益が黒字になったぐらいではダメだと私は思っているのである。
KMCの累損は、田崎社長の後を引き継いでくれた『百合草三佐雄KMC社長』の時に実現したのだが、富永・日野クンはその時点までKMCに出向していたのである。
 
当時の山田専務にお約束した、『販売会社の健全化』は、当時のKMCの累損が1988年度に消去されて、世界の全販社が剰余金のある健全な形になったので、私自身は100% お約束通が果たせた と思っているのである。
そんな6年間をアメリカKMCに逆出向してくれた『富永・日野』くんに感謝なのである。

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