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平成の虚無僧一路の日記

本能寺の変の真実 

2011年02月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



慶応高校の同級生「明智憲三郎」君が、『本能寺の変 
427年目の真実』(プレジデント社刊) を出版した。
なんと、彼は、明智光秀の子孫だという。その内容は
従来の「怨恨説」を覆すもので面白い。

「光秀謀反の動機については、いろいろ書かれているが、
すべて 江戸時代以降に書かれた創り話である」と否定する。

そして、当時の史料「家忠日記」やイエズス会等 外国人の
通信記録を克明に解明した結果「信長暗殺は、光秀と家康が
仕組んだもの」との結論に達している。

光秀は信長に最も信頼されていた。一方信長は家康をどう見ていたか。
天正10年、武田勝頼を滅ぼした後、信長にとって 家康はもう用済み。
邪魔な存在となった。信長は家康を京都に招き、そこで暗殺する計画を
光秀に打ち明けた。それを知った光秀は、逡巡した末、家康に信長の
謀略を洩らし、家康と共謀して信長を討ったのだ。

家康は、堺から即、三河に帰り、武田家滅亡後 織田領となっている
甲斐、信濃を平定する準備を始めている。ところが、秀吉が
とんぼ返りして、光秀を討ったため、すべてを 頬被りした。

本能寺に攻め入り信長を討った斉藤利三の娘が春日の局。家康は
春日の局を異常に重用した。三代将軍「家光」の「光」は「光秀」の
一字。家康が遺言した埋葬の地「日光」は「日向守光秀」。日光には
「明智平」という地名まである。家康は、光秀によって命を救われた
という恩義があったのだ。

これで、すべての謎が解ける。拍手拍手

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