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雑感日記

カワサキの二輪事業と私  そのー7 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 に集まった人たち 

2016年07月24日 外部ブログ記事
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★7月21日に 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 と言う名目でこんなメンバーが 灘の酒心館に集まった。
 

 
   カワサキの単車の激動期を支えたメンバーと言っていい。
  前列真ん中が、この会の主宰者桑畑禎文さん、左が北村敏さん、右が阿二眞三郎さん、
  後列は左から、井川清次さん、野田浩志さん、私、大前太さん、一番右は川崎芳夫さん。
  
このメンバーたち、カワサキの二輪事業の中で初期のころから、或は入社してから退職するまで、ずっと二輪事業部の中にいて、激動期のカワサキの二輪事業を文字通り支えたメンバーなのである。
そんなお一人、お一人を私なりの目でご紹介してみたい。
井川清次さんと阿ニ眞三郎さんが、昭和38年(1963)入社で一番若いので、お若い順番からご紹介してみたい。
 
井川清次
昭和38年は既に二輪事業は始まっていた。 青野ヶ原のモトクロスがあった年で未だ発動機と単車とが一緒にやってた時期だと思う。
私は既に単車営業にいたのだが、井川清次、鍋島英雄 というイキのいい新人が企画配属で入社したのをよく覚えている。だから井川くんは、この8人の中で、ただ一人、単車以外は知らないというか、ほかの部門は最後にちょっと発動機の子会社を引き受けただけの生粋の単車マンである。
二輪事業が本格的に動き出すのは、日能の調査で『二輪事業やるべし』との結論が出て、昭和39年1月に単車事業部が発足し、広告宣伝課が出来て当時の川崎航空機本社が開発費として1億2000万円の予算を3年間に亘って付けてくれて、私が会社始まって以来初めての広告宣伝課を担当したのだが、この膨大な予算の管理は企画部門で、その直接の担当が井川君だったのである。
この広告宣伝費の使い方が大変で、1億2000万円もの予算は大きすぎてなかなか使えないのである。テレビとか新聞広告でもやれば、それは簡単に使えるのだが、当時のカワサキは『実用車のカワサキ』で125B8 や125B1の売りは登坂力があるなど田舎に強くて、売れるところも九州や東北、新潟などの地方が主力で、東京、名古屋、大阪などの大都会ではさっぱりなのである。そんなことで大都会が中心の新聞やテレビは使えないので、田舎向きの販売促進費や、ジェットエンジン部門から下取りのヘリコプターを買ってきて、ヘリを持って地方のドサ回りなどもやっていたのだが、それも大した額ではないのである。
当時のヘリは、1000万円ぐらいなのだが、償却年数は4年だから下取りのヘリなど100万円ぐらいの簿価なのである。それを飛ばす費用だけだから、非常に派手なのだが、金は掛からないのである。
だから、細かい伝票の数ばかりが増えて、そんな大量の伝票をすべて井川君に回していたのである。そういう意味では当時非常にお世話になった井川君だが、確か2年目ぐらいで、彼は山梨の代理店山梨カワサキに出向したのである。
多分、川崎航空機籍の中で一番先に現地出向の第1号かも知れない。彼が山梨に行くときには、お世話になったので大量の助成物など広告宣伝課から贈呈したのを覚えている。
山梨から戻ってからは、確かブラジル市場の調査をやったり、そのあとドイツの販社の社長もやったりして、彼がドイツにいるときは、川重の山田副社長のお供をして一緒にドイツに行ったのを覚えている。
山田さんもそうだが、井川君も酒飲みでどんどん飲むと最後は解らなくなってしまうのである。空港にはちゃんと迎えて貰ったが、夜は私が彼の家まで送ったのだが、そんなこと覚えているのだろうか?
ドイツから帰ってから、国内の東京の販社の責任者をやったので、ご存じの方もいっぱいおられるだろう。まあ、兎に角オモシロい性格で、井川のことを悪く言う人は聞いたことがないが、武勇伝はいっぱいあるのだろう。
個人的には山登りは好きで、確か日本名山100山はみんな制覇しているはずである。久しぶりだったが、あちこちがどうこうと言っていたが、ちゃんと帰りには福寿の生酒の量り売りを買っていた。
カワサキの井川君ご存じのみなさん、ナイスガイ井川くん、結構元気です。
 
阿ニ眞三郎
阿二さんが、昭和38年入社だとは知らなかった。 二輪事業部でも知らない方も多いと思うが、彼は川航ではなくて川重入社でずっと労務畑を歩いて、単車が大変だった昭和58年(1983)に労務から本社企画に異動して、二輪とのお付き合いが始まったのである。
大庭本部長、高橋副本部長の時代で、私は企画、大前太さんが生産企画のころで、阿二さんが本社の予算を握っていたころだから、私と大前さんが阿二さんとは一番お付き合いがあったのだと思う。
大体、本社のスタッフはマジメすぎて頭はイイがオモシロくないのが相場なのだが、この時期の本社スタッフは、阿二さんはじめユニークな実力者が揃っていて、みんな単車を応援してくれたのである。
そんな中でも阿二さんは特別で当時の二輪事業部のいろんな会議に顔を出したり兎に角、明石の中を歩き回っていたのである。とても、本社育ちのエリートとは思えなかったのである。
当時の大庭本部長の覚えもめでたくて、独りで単車に乗りこんで来られた大庭さんの番頭役を私がやっていたのだが、大庭さんがいろんな判断をされる時に、阿二さんの意見を頼りにされていた節があるのである。
そんな阿二さんと私は非常に気が合っていろんなことで手伝って貰ったのだが、いまも二輪のユーザーに親しまれている大分県のサーキット SPA直入は、私と岩崎茂樹と阿二眞三郎とで造った と言ってもいいのである。
 
  
 
カワサキがサーキットをつくるなど、勿論初めてのことだし、スタートは岡山や四国の小さなサーキットの現地調査からスタートしたのだが、その調査のの段階から阿二さんは付き合ってくれて、岩崎茂樹との3人で田舎道を車で走り回ったのである。
大体サーキットなど川重の誰一人経験のないプロジェクトだったので、関係する本社各部門のスタッフたちへの説明を、事業部サイドだけのメンバーで行うのはなかなか難しかったのだが、本社スタッフそのモノの阿二さんが説明側に回ってくれたので、大きな説得力になったのである。
当時の社長が単車事業本部長を経験された大庭浩さんであったことも、その大庭さんに信頼厚い二人(阿二さんと私)が担当しているプロジェクトということも 、よかったのだと思っている。
こういう財産物件の担当である本社財産課も、非常に積極的に動いてくれて、SPA直入は計画して2年と言う最短の期日で実現したのである。
 
普通なら、高橋鐵郎さんを偲ぶ会 というこんな単車のメンバーの中に、本社のメンバーが加わるなどあり得ないのだが、阿二さんをこの会に誘ったのは当時本社から膨大な予算を都合して貰った大前太さんなのである。
Ninja ファンのために言っておくと、当初の Ninja900は、全く新しいエンジンであったので、その生産設備予算の額が膨大でそれを通すのは大変だったのである。若し、本社の予算担当が阿二さんでなかったら、一度にあんなに大きな予算が下りたかどうか・・・
同じ新車でも、共通部品の多い従来のエンジンベースからの改良機種と 全く新しいエンジンとは全く別で、Ninja 900などの場合は、新しい機械設備が必要なのである。
当時の厳しかった二輪事業がスムースに復活したのは、確かに Ninja 900などもよく売れて、事業経営に貢献したことは間違いないのだが、それ以上に阿二さんはじめ、本社スタッフの応援による『資金投入』がなければ、カワサキの二輪事業は立ち直っていないのである。
 
  
 
野田浩志
野田浩志さんは、昭和36年川崎航空機入社である。入社して発動機の小型エンジンの営業を担当していた。当時は発動機事業部の中に単車と小型エンジンがあったので、私の所属した単車営業の隣にいたので、その頃からよく知っている。
野田さんが発動機から単車に移ってきたのは、多分カワサキ自販からカワサキオートバイ販売に社名変更しカワ販に販売促進部などが出来た時期からだと思う。
川崎航空機の事務屋の主力が本社からも明石の各部門から大挙異動し、カワサキオートバイ販売に出向したのである。
その象徴みたいな人が、販売促進部長に本社の人事課長から異動した矢野昭典さんで、本社人事課長だったこともあって、事務屋のこれと言う人たちを殆ど集めてしまったのである。
販売促進部の中に販売促進課と広告宣伝課があって販売促進課は八木健さんが、広告宣伝課は私が、いずれも川崎航空機では係長にもなっていないのに、いきなり課長抜擢などというドラスチックな対応をしたのである。ただ、課長ということで対外的には恰好はいいのだが、別に給料が上がるわけでもなく、『残業料』も入らなくなって、返って給料は少なくなったような気もするのである。
その販売促進課の中心に野田浩志はいたのだが、この販売促進課には本社から岩崎茂樹、前田祐作、明石からは鍋島英雄なども加わって事務屋のトップクラスが顔を揃えていたのである。
野田さんは、ここをスタートに、井川さんに続いて長野県の営業所と言う第1線を経験しその後カワ販の本社に戻り、カワサキ特約店構想を起案したのは野田さんなのである。カワサキの特約店制度は、野田さんが起案し、現実に最初に手掛け実現させたのは大阪・名古屋などを担当していた私なのである。
そのあとアメリカのKMCに出向し、アメリカでも現地第1線も経験し、そのあと何回も明石とアメリカを異動し、KMCの社長も、その後川崎重工業のニューヨークの社長も経験しているアメリカ通なのである。
いろんなことをやってるが、結構私との接点も多く、私の思っているノンちゃんのイメージは、社長と言うよりは、優秀な企画マンなのである。
 
 
大前太  
大前太さん、なぜこんな豪傑たちばかりが集まったのかと思うのが昭和35年入社の連中である。川崎航空機が二輪事業に進出するためにこんなに沢山採ったのだろうか、百合草三佐雄、種子島経、武本一郎、大前太・・・名前を上げるときりがないほど沢山いるのである。
この人たちは、種さんのように教育部門から何年か後に単車に異動してきた人もいるが、入社以来単車担当よ云う人たちも多いのである。
そんな中で大前太は、生産技術管理などの専門家として、若い頃から結構名前を売っていたのである。特に私など直接の接点はなかったのだが、名前はよく知っていたのである。
 
 
 
 これは、1982年、二輪事業の存続が危ぶまれた時期に、私が企画に呼び戻されることになるのだが、その時の引き受ける条件のひとつとして、『大前太を企画部門の生産企画担当』で呼び込むことを条件にお引き受けしたのである。それまでに一度、企画部門を1年ほどを経験したのだが、技術オンチの私は技術屋さんの訳の分からぬ予算要求などの対応が大変だったのである。
今回の大役を引き受けて、主として海外販社経営の改善を行うためには、明石工場の案件を処理してくれる協働者がどうしても必要だったので、その時頭に浮かんだのが『大前太』だったのである。
これからの数年間で事業部は立ち直るのだが、大前太さんの会社勤めの中で、一番性根を入れて務めてた生産企画部長時代だったとのでは思う。
そして事業部の再建の目途が立ち始めた時点で、大前さんを国内の東京地区担当責任者に送り出した人事は、私なのである。生産サイドから企画に引っ張り営業部門を経験したら、将来より大きな職位の可能性があると思ったからである。
二輪事業は、川崎重工業の他の部門の『受注事業』とは全く違って、開発・生産・企画・営業・現地販売までの幅広い分野の事業展開なのである。
高橋鐵郎さんもそうだったが、短い期間ではあったが販売部門の経験が、あとで大いに生きたのである。その後大前さんは営業から企画に戻り、単車の事業本部長、川崎重工業の常務まで勤め上げたのである。
 
 
 
北村 敏
北村敏さんは、昭和34年入社、私の2年あと、最初は明石事務所の勤労からのスタートである。
何となく私ともご縁があって、私が広告宣伝課長から昭和42年に仙台事務所長に異動した後の広告宣伝課を引き受けてくれたのが北村敏さんなのである。
その後、カワ販本社の企画部門から、川重の部品課に戻ったと思う。普通部品課などはあまりエリートは行かない部門のように思われがちだが、カワサキの二輪の部品課は、1960年代の後半に川重の自動出入装置を取り入れた先進的な自動大倉庫を田崎雅元さんが創り上げて、それまでの部品課から一転 華の部品課となって、その初代が桑畑禎文さん、2代目が田崎雅元さん、そして3代目が北村敏さんなのである。
そして上の表にあるように、昭和57年10月の人事では高橋企画室長、古谷企画部長、北村管理部長、そして大前太さんが生産企画担当で名前を連ねてくれて、カワサキの二輪事業の危機脱出の中枢メンバーだったのである。
上記の表に種子島経、カワ販とあるがドイツから戻って、カワ販に異動している。そしてドイツの後任に井川さんが異動しているのである。
北村さんは、その後は営業部門の責任者を長く務め、退職後高橋鐵郎さんが川重の理事以上のOB会相信会の会長当時はずっとその事務局長として支えたのである。
 
川崎芳夫
川崎さんは、昭和31年入社、私の1年前である。
川崎重工業の川崎は、決して東京の隣の川崎市からではなくて、鹿児島の川崎正蔵さんがその創始者なのだが、川崎芳夫さんはその曾孫 なのである。
殆ど表面には立つことなく静かなのだが、果たされた実績はなかなかなのである。
まず、昭和37年、38年の鈴鹿サーキットへのレース見学、翌年の青野ヶ原モトクロスの裏方に徹して二つを纏めて実現まで持って行ったのは、間違いなく川崎さんなのである。商品企画でもあまり表面に名前はでないのだが、生産管理から技術部に移られてから商品企画部門をきっちりとした職制として纏めらえたのは川崎さんなのである。
東南アジアの視察調査団のメンバーのお一人でもあるし、その結果『市場開発プロジェクト室』が出来て私がそちらに移って出来てしまった企画室の穴を埋めて頂いたのが川崎さんである。
カワサキの場合、派手な目立つオモシロい人も多いのだが、川崎さんのように静かでじっくりと、ちゃんとした仕事をされる人望家もいるのである。
 
桑畑禎文
桑畑さんの入社は何年なのかよく解らないのだが、昭和30年以前であることは間違いない。そして多分大学院卒なのである。
この辺りの年次の方は、戦後の学制改革などで旧制、新制の高等学校などがあって、ややこしくて年次がよく解らないのである。
川崎の二輪関連でも、濱脇洋二、大槻幸雄、安藤佶郎、高橋宏、桑畑禎文さんなどこの辺りの年次の人は、みんなよく解らないのである。
それはともかく、桑畑さんはジェットエンジン部門から単車に来られて、創世期のカワサキの生産管理や、アメリカKMC, リンカーン工場、明石の部品倉庫などいろんなところにみんな絡まれているのである。
KMCと明石との関係がなかなか難しかった時代には、確かリンカー工場におられたりした。
私が営業部から国内に異動する直前にアメリカから戻られて高橋鐵郎事業部長とのコンビで営業部門や企画部門を纏められたのだが、その数年は半年ごとに職制変更があったりして、落ち着かない大変な時期だったのである。
私は仕事の上では、直接関係のあった時期は短いのだが、その後品証関係を担当され高橋本部長時代には技術本部を担当されたりしたのである。
冒頭の写真にあるこの酒心館での会合では、桑畑さんが間違いなく主宰者であり、幹事の役割を果たされていてすっかりお世話になっているのである。
 
高橋鐵郎さんを偲ぶ会  と言うことで集まったメンバーのご紹介をしたが、
今と違って二輪事業が川崎にとって全く新しい事業であったことから、みなさん、ホントに若い頃から事業の推進者のような役割を与えられたのである。
特に、桑畑さんなど何かずっと旗を振られていて、そんな桑畑さんからはこんな会の幹事などおやりになるイメージがどうしても湧かないのだが、現実は非常に丁寧な心配りの桑畑さんを見せて頂いているのである。

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