メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

日々是好日

少し道草 

2016年07月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 「までい」の村・飯舘村の今

 平成の合併の際には、飯舘村では6,000名の住民が民主主義のルールに基づき、合併賛成、反対派がそれぞれの自身の意見と逆の立場で議論してみるというディベートまで取り入れました。結局、住民参加の総意の結果、自主独立路線で生き抜くことを決めた先進的でユニークな自治体として知られた村です。当に、自分たちの将来は自分たちで決めるという欧米流の自己責任原則を貫いた自治体なのです。阿武隈山系に囲まれた寒冷高地の土地柄、その昔は冷害で農作物が大被害を受け悲惨な生活を余儀なくされる場面もあったようです。福島原発事故の前までは、「までいの村」・飯舘村として、日本で一番美しい村の一つでした。飯館ブランドを育て、外から飯舘村に結婚して住み着いた若い奥さんや、子供たちをヨーロッパ研修旅行まで準備する、優しくて、未来志向の村づくりがなされていました。

  「いいたてむらまでい企業組合」 http://www.iitate-madei.com/life01.html によると
「までい」というこの言葉は、私たち飯舘人が古くからなじんできた言葉です。私たちは、親や年寄りから「食い物はまでいに(大切に)食えよ」「子供はま でいに(丁寧に)育てろよ」「仕事はまでいに(しっかりした・丁寧に)しろよ」と教えられてきました。「手間隙を惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「時 間をかけて」「じっくりと」そんな心が“までい”にはこめられているのです。
 スローライフを私たちの言葉で表すとき、そこにこめられた意味や心情までもわかりやすく表せるのが「までい」ではないでしょうか。

 私は、最初の「までいの村いいたて」の小冊子が出来上がったころ、初めて飯舘村の自治のあり方を知ったのですが、丁度その時、平成23年3月11日に突如起こった福島原発事故の人災により、飯舘村の住民にとって、全ては夢の彼方に消えてしまうのです。何という悲劇。その日から苦難と、途方に暮れる生活を突如強いられることになるのです。

 昨日、原発事故後の飯舘村を紹介する「飯舘村2年間のあゆみ」、「飯館村全村避難 4年半のあゆみ」−までいの村に陽はまた昇るーと題した二冊の小冊子(写真ご参照)を受け取りました。この秋から避難勧告が解かれ、線量の高い、一部の地域を除き、住民の帰村が始まります。既に6,000名の住民の内約半分の方は、子供の健康、職場を求めて県外に移住されておられます。帰村出来るとは言え、基本的にはお年寄りが中心となり、「までいの村づくり」のコンセプトを実現するためには全く見通すことが出来ません。それでも二冊目の小冊子の副題には「までいの村に陽はまた昇る」と付けられています。これからも出来る限り(私に出来ることは本当に限られていますが)飯舘村を訪ねたいと思います。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ