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敗者の日本史(菅原道真) 

2016年07月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



菅原道真(不遇の最期を遂げる)

宇多天皇の信任を得るも、宇多の譲位後、醍醐天皇らによつて左遷
「院政」政治が否定され道真は配流、菅原家執政務の家ヘから学者の家へ
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください












菅原道真(ネットより画像引用)

道真を重用する宇多上皇と醍醐天皇との不和
菅原氏は元をたどれば、葬儀などをつかさどる土師氏であった
土師氏が菅原氏を名乗り、学問の道で活路を開いたことが道真の登場をうながした
道真は急速に出世し参議となった
藤原基経亡き後の政治を、道真中心に執らせようとした宇多天皇の取り立てによるものである

宇多が醍醐へ譲位
遣唐使の停止などの業績を残したが、宇多が醍醐に譲位し、醍醐が天皇に即位する
宇多は醍醐に譲位の宣命を下し、公卿たちが出仕してこないというトラブルが起きる
宇多が若くして譲位したのは、王権の基盤を上皇の立場で強化しようとしたからである
醍醐からしてみれば政治に口出ししてくる宇多が目障りで仕方なかった
宇多の意志を近臣として実現しようとする道真に対しても同様であった

道真失脚
昌泰の変により、道真は大宰府へ配流
配流の理由は道真が醍醐の廃位を企てているというもの
道真は、醍醐と藤原時平により、宇多の「院政」否定にともなって排除された
道真の大宰府での死去後、菅原氏は「執政の家」としての道を絶たれ「学者の家」として定着していく

菅原道真
宇多天皇に重用され参議となって政治の中枢に携わる
藤原時平の讒訴(ざんそ)で右大臣から太宰権帥に左遷配所で没した

藤原基経
右大臣を経て太政大臣となり、光孝・宇多両天皇を擁立して実質上、最初の関白となる

藤原時平
藤原基経の長子
宇多上皇の信任の篤い右大臣菅原道真を大宰権帥に左遷し、藤原氏の地位を磐石にした
二十九歳で他界するが、その死は道真の崇りともいわれた

醍醐天皇
道真を遠ざけ、藤原時平を重用
貴族たちの動きを抑圧する荘園整理令などを発布
『日本三代実録』『古今和歌集』『延喜格』『延喜式』などを完成させた

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