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敗者の日本史(有馬皇子) 

2016年07月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



有間皇子(ありまのみこ)

有間皇子6歳のとき父(孝徳天皇)が即位するるが9年後孝徳天皇崩御
孝徳天皇は、中大兄皇子との皇太子と溝を残したまま死去
有間皇子は、中大兄に敵視されるのを恐れて狂人を装つたが、謀反の疑いをかけられ処刑された
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください




有間皇子(ネットより画像引用)

父孝徳天皇の孤立
乙巳の変と大化の改新は、中大兄皇子と藤原鎌足主導したとされているが?
実際は、乙巳の変後の政治は、孝徳天皇と左右大臣が中心となって行っていた
孝徳天皇による改革は、急進的な改革で反発多かった
難波遷都に反対する中大兄皇子が、皇極前天皇他を飛鳥に引き連れ移動したため、孝徳は孤立してしまった
孝徳天皇死去し飛鳥遷都実現する

仕掛けられた罠
有間皇子に謀反を勧めた赤兄の誘いに乗った有間皇子
それは赤兄の罠で、赤兄らによって有間皇子は、中大兄のもとに送られ処刑された
『万葉集』によれば、山上御憶良らはその死を悼んだ歌を詠んでいる
有間皇子が排除されたことで、中大兄の王位継承候補者としての地位が盤石になった

藤白坂の入口にある有間皇子の碑
碑には有間皇子が護送の途次で詠んだといわれる歌がある
「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」が刻まれている

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