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第100回(2) 昭和38年8月 原爆ドーム保存運動 

2016年07月10日 外部ブログ記事
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高校3年の8月7日午後、原爆ドーム保存のための署名用紙と募金箱を持って、駅前にいた。
大きい声で呼びかけていると、驚いたことに通りの向うから、小学生の時広島から越してきた百合さんが、ゆっくり歩いて来た。
中学卒業後初めて会った百合さんは、「としちゃん、ありがとう。少しだけど。」と言って、募金と署名をしてくれる。
「帰りに角のたばこ屋に寄ってね。」と、百合さんは駅前のたばこ屋を、指差した。
「署名と募金をありがとう。必ず寄るね。」と私は応えた。
次に父が様子を見に来て、署名と募金をしてくれたので、少々驚く。
原爆ドームのことは詳しく話していなかったのに、来てくれたので嬉しい。
暑いのと高校野球のラジオ放送のためか、やはり人通りは少なく、数人の募金と署名だけだった。
帰りにタバコ屋に寄ると、百合さんはホウキを持って、掃除をしている。
手を休めて、奥から手さげ袋を持って来て、その中から手帳を出した。
「これは私の被爆者手帳なの。いじめられたり差別されるから、絶対他人に見せたらダメと、お母さんが言ったの。」
「でも、としちゃんにだけには見せるわ。」と手帳を見せながら、百合さんは話す。
「私は疲れやすいから、高校に行けないし人並みに働けないの。ここのお店のおばさんは親切な人で、私を働かしてくれるのよ。」
「食事を食べさせてくれるし、お小遣いもくれるの。」と百合さん。
私はやはり百合さんは被爆していたんだと思いながら、「それは大変ね。体を大事にしてね。」としか言えない。
そして、疲れやすくても頑張って働いている百合さんのことを、すごいなーと感心するばかりだった。
家に帰ってから、町内の病院の先生・散髪屋・ふすま屋・美木さん達の家にお願いに行くと、快く署名と募金をしてくれた。
私の町内の人が戦争のことを話すのを、あまり聞いたことがない。
「戦争時余りにもひどい状態だったので、話したくないし思い出したくないようだ。」と、以前父が言っていた。
募金活動を通して、町内の人達の平和を願う気持ちと、原爆反対の気持ちが伝わって来て、嬉しくなる。
しかし、被爆して苦しんでいる人が、いじめられたり差別されることを知り、悲しくなりずっとが心から離れないままだった。

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